
2014年に発刊したこの本ですが、このたび、二本松農園代表齊藤登のブログで連載させていただくことにしました。2011年に発生した東日本大震災により、福島県農業は、放射能対策や風評被害で大きな影響を受けましたが、
実際、福島県の農業現場で、どのような事が起きていたのかは、なかなかまとまったものがありません。
この本は、福島第一原発から50km、二本松.農園がこれらにどのように取り組んできたかを農業者の立場から
ありのままに書いています。
これをご覧いただくと、福島県農業はもとより、広く消費者と農業者との関係、日本の農業の未来も見えてくるような気がします
。ぜひ続けてご覧ください。2019年1月10日から連載開始です。
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福島県内54の農家で直接運営
里山ガーデンファーム
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第1話
第2話
第3話
(放射能との戦い)
このように、ネットショップを通じ、全国の皆様に応援買いで助けていただいた。
絶対、基準以上の放射能を含んだ農産物をお送りすることはできない。今でこそ、福島県内に数百の食品放射能測定所があり、すぐに測定できるようになったが、震災直後から6ケ月間ぐらいは、この体制がなかった。どうしていたかというと、県の行う地域ごとのピックアップ検査に頼っていたのである。たとえば、きゅうりであれば、二本松市内で5~6か所程度選定し、検査を行い、基準以上の放射能が検出されると、その地域全体がその野菜について出荷停止になる。特に、露地の葉物野菜やブロッコリーなどは数か月間出荷停止が続いた。
6月になると、いよいよ露地もののきゅうりが出てくる。二本松農園の主力作物はきゅうりであるため、もし、これから基準以上の放射能が検出されると、売れなくなり、農業も続けられなくなる。なので、その結果を見るまではドキドキものであった。
2年前から開墾を行い、退職金の大半をつぎ込んで規模拡大したきゅうり栽培。それが、できなくなるということは、脱サラして農業を志したのに、それがすべてゼロになる。
6月下旬、二本松市産の露地きゅうりの検査結果が発表となった。それを見て、私は目を疑った。放射能は「検出されず。」だったのである。二本松農園周辺は、特に放射能が高いと聞かされていたので、心の中では、放射能が検出されるのを覚悟していた。それが・・・「検出されず」なのである。私は、県の農業改良普及所の人に「これって本当なの?」と何度も聞いたが、普及所の人は、「本当です。きゅうりをはじめとして、トマト、ほうれん草、インゲン、いも類に至るまで、放射能は検出されず、か、検出されても基準(当時の基準は500ベクレル/キログラム)のはるか下です。」とのこと。後に、茨城大学のN名誉教授は、このことを「福島の奇跡」と言ったが、まさにそんな感じだった。
なぜ、野菜類から放射能が検出されなかったのか。
そのメカニズムは次のように言われている。
放射能とは、具体的に原発事故によってまき散らされた放射性セシウムを意味する。セシウムは大気中から地表に降り注ぎ、それが、自然に、あるいは、農民が畑を耕すと地中に入っていく。地中には、肥料の三要素、窒素、リン酸、カリが存在する。実は、そのカリが、セシウムと化学的構造が似ている。植物は、肥料のカリを吸い込もうとするが、そこにカリと似ているセシウムがあるとそれも吸い込んでしまう。しかし、セシウムよりカリの方が格段に多い土壌、いわゆる肥沃な土壌では、セシウムよりカリを吸う確率が高いので、結果としてセシウムがあまり吸い込まれない、という理屈である。動物の堆肥などをたくさん使い、一生懸命耕した肥沃な農地、そこから生産される野菜からは放射能が検出されにくい、
ということが分かったのである。特に日本の農地は良く管理されているため、チェルノブイリ原発事故周辺の土地よりカリ成分が多く、結果、チェルノブイリで放射能が検出された野菜でも、福島では検出されなかったのである。
しかし、残念ながら放射能を吸い込みやすい農産物があることも分かってきた。それは、野生のきのこ類、ブルーベリー、キュウイフルーツ、大豆、そして果物。特に、山に自生している天然きのこ類は、基準の数倍で数千ベクレルも検出されることが多かった。野生のきのこ類は、今でも出荷停止になっており、原木を使って山で生しいたけを栽培した農家の多くが廃業に追い込まれた。
きのこ以外の、果物や大豆等については、基準(2012年4月から、一般食品における放射能の基準は、100ベクレル/キログラム)内ながら30ベクレル程度の放射能が検出されることがあった。なぜ、大豆が、他の野菜に比べて放射能が検出されやすいのかは、今だに明確な原因が分かっていないようである。しかし、震災から3年近く過ぎた今、大豆からも、放射能はかなり検出されにくくなっており、二本松農園の場合、「検出されず」か、出ても、15ベクレル程度となっている。
果物についても、震災直後の2011年中には、桃、なし、りんご等いずれも30ベクレル程度検出される例が多く見受けられた。基準のはるか下と言っても、放射能が検出されるということは、やはり消費者は買うのを避ける傾向となる。これにより、2011年の夏は、福島市の特産である「桃」は、非常に売れにくい状況となった。
普通、桃農家の出荷価格は、震災前1キロで800円程度であったが、2011年の夏には、福島市産の桃が1キロあたり、数十円にまで暴落し、それでも買い手がつかず、しかたなく廃棄していた例があった。風評被害の最も厳しい時期である。震災の起きた2011年は、天候が安定し、特においしい桃がとれていた。それを・・・捨てざるを得なかったのである。桃農家がどんなにつらい思いをしたか。「二本松農園のネットショップで桃を売って欲しい。」と多数の農家が助けを求めてきたのもこの時期である。
基準のはるか下なのに、売れない。この冬、福島の果樹農家は一斉に「樹木の洗浄」を始める。樹皮にこびりついたセシウムが、果実に移行していると考えたからである。雪の舞う寒空の下、果樹農家が、高圧洗浄機で木を洗う姿があちこちで見られた。
この努力により、次の年からは、福島市産の果物から放射能はほとんど検出されなくなった。除染が功を奏したのである。
食品放射能測定機の話をもう少し詳しくしたい。
一番普及しているのは、「シンチレーション型放射能測定機」である。これは、シンチレーションが、放射線のガンマ線を受けると発色する機能を活かし、その発色の強度によって、検体の食品中における放射能を測るものである。
検体は通常1リットルのものを細かく切り刻み、約30分間測定する。このシンチレーション型測定値の検出下限値は10ベクレル程度が多い。
検出下限値とは、その機械の測定限界の意味であり、たとえば、検出限界10ベクレルのシンチレーション型放射能測定機の正確な放射能測定値は10ベクレル以上であり、それ以下の数字は参考値となる。検査結果において、「検出限界以下」とか「ND」(ノーデータ)というのは、当該測定機の検出下限値以下という意味であり、実際は、放射能がまったくゼロなのか、9ベクレルあるのかは分からないということになる。10ベクレル以下は測定できないとしても、10ベクレル自体が基準(100ベクレル)のはるか下であることから、一般にこの機械が普及しているのである。なお、この検体を切り刻むシンチレーション型放射能測定機の価格は1台150万円程度である。最近は、検体を切り刻まず、そのままの形で検査できる「非破壊型」の検査機も普及してきており、二本松農園に2013年秋に導入したものも、この非破壊型である。なにより、非破壊型は、貴重な農産物を無駄にせず、検査後は販売できるのが良い。二本松農園に導入したこの検査機の検出下限値は6ベクレルであり、性能もアップしている。
検出下限値を説明したが、もっと精密に放射能を測りたい場合は、「ゲルマニューム半導体検出機」という機械を使う。これを使うと、1ベクレル以下まで精密に放射能を測定することができる。しかし、機械自体が数千万と高価であるほか、検査に専門的な知識が必要となるため、福島県においては、福島県農業総合センターや民間の専門検査機関等設置場所は限られている。
2012年の秋には、福島県産の米をすべて測ろうということで,コメの「全袋検査機」が導入された。福島県で1年間に産出される米は、30キロの袋に換算して1100万袋にもなるが、これらのすべてを放射能検査しようというものである。
二本松農園産の米を例にとると方法は次のとおりである。
秋、コンバインで稲の刈り取りを行い、農園の作業所に持ち込み、乾燥のうえ、もみすりという作業を経て、玄米となる。玄米を通常30kgずつ袋につめる。この袋すべてに、市役所から配られたバーコードシールを農家が貼る。それが終わると、農家は市役所の農政課に電話し、全袋検査の依頼をする。数日後、検査日が指定され、集荷業者が米を取りに来る。
集荷業者は、二本松市内に数か所ある「米の全袋検査所」に米を搬入する。米はトラックからホークリフトで下され、全袋検査機の近くに運ばれる。検査機には、ベルトコンベアーが設置されており、米袋を一つ一つそのコンベアーに乗せていく。コンベアーはトンネルのような形をした全袋検査機の中を通っており、コンベアーに乗せられた米が検査機を通過する。検査機の脇には大き目の液晶ディスプレイがついており、検出下限値以下の場合は、ディスプレイに大きく○が映し出される。基準の100ベクレルを超える可能性があると判断される米が出た場合は、その米は、ゲルマニューム半導体検出機の詳細検査に回され、もちろん基準を超過した米は、市場に流通させない。
ちなみに、平成24年秋収穫の福島県産の米について、1,130万袋の検査を行い、
100ベクレルの基準を超過したのは、71袋で、全体のわずか0.0007%であった。
(東京に直接売りに行く)
2011年4月下旬、ある広告代理店の方から「齊藤さん、風評被害対策で、ネットで随分販売されているようですが、川崎で直接販売してみませんか?」という話が舞い込む。
私は、少し考え「やらせてください。」と回答した。ネットの売り上げが、1ケ月をすぎ下降気味になってきて、県内農家を助けるためには、新たな販売先が必要だと思っていたことと、首都圏に福島県産農産物を持ち込んだ時どのような反応があるか見たかった、肌で感じたかったからである。
販売させていただける場所は、川崎駅地下街で、たくさんの人通りがある場所で、試し売りを行うには絶好の場所である。毎週土曜日の10時から概ね午後2時頃までの間。
震災からわずか1ケ月ちょっと、風評被害まっただ中での船出である。当時、農園スタッフは7名。ネットショップの事務処理で依然として忙しかったし、田植え時期も間近に控え、とてもスタッフを連れていけるような状況ではなかったし、首都圏で販売する過程で予期せぬ事態が起こらないとも限らない・・ので、まずは、自分一人で川崎に行くことにした。
4月下旬の金曜日の午後1時、愛車の乗用ワゴン車に、只見町から宅配で取り寄せた例 のゆべし、味みそ、県南のハウス栽培の生しいたけと乾燥しいたけ、いわき市からのエシャレット(らっきょうの一種で生で食べるとおいしい)、そして、二本松農園産では米だけを積んで出発。この時期農園には、米ぐらいしかなかった。もちろん震災前の秋に収穫した米なので放射能の心配はまったくない。
次に二本松市内の有機農家を回り、有機にんじんやいも類、あるいは、有機にんじんジュース等の加工品。次に国道4号線を約30km北上。福島市内の大規模トマト農家からミニトマトを仕入、そこから少し離れた農家からハウスきゅうりを大量に仕入れ、その後も県北の様々な農家から出荷停止になっていない、ハウス栽培の野菜類を大量に仕入れた。
ワゴン車は満杯。乗用タイプのワゴン車であるため、クッションが柔らかく、ゆっさゆっさとする。
東北自動車道の福島西インターチェンジから高速に乗る頃はすでに午後6時、農園を出てから5時間もすぎ、既にこの時点で100キロを走っていた。
東北自動車をひたすら南下。途中サービスエリアで夕食をとって、約250キロ離れた埼玉県の蓮田サービスエリアに着いたのは午後11時頃になっていた。
川崎駅地下のマルシェの開始時間は次の日の朝10時から。ほんとならビジネスホテルに泊まりたいところであるが、そんな贅沢をしていたら赤字になってしまうので、蓮田サービスエリアで車中泊というか仮眠。燃料を節約するためにエンジンを切り、寒い車中で毛布をかぶる。
蓮田サービスエリアから川崎までは、首都高を使えば、1時間ちょっとで行けることは分かっていたが、なれない首都高だし、川崎での準備もあるので、午前4時、眠い目をこすりながら蓮田サービスエリアを出発。川口ジャンクションを経て、いよいよ首都高へ。
たくさんの野菜類を積んでいるので車が重い。首都高はカーブが多いので慎重に時速
70キロで進んでいく。
朝4時過ぎなのでまだ空は暗いが、東京の街はたくさんの灯り。高架の首都高を走っていると、東京の街の灯りに飛び込んでいくような感じになる。
「俺はいったい何をやっているんだ。他の農家の野菜をたくさん積み、一人で眠い目をこすりながら、東京に突っ込んでいく。もしかしたら・・・福島県の野菜なんか持ち込みやがって・・・と袋叩きにあうかもしれない。でももう後戻りはできない。東京に突っ込んでいく。」そんな事を考えながら首都高をゆっさゆっさとワゴン車を走らせていた。
当時はやっていたのは、AKB48のヘビーローテーション。それをワゴン車いっぱいに流し、大声で歌う。51歳にもなってAKBもないものだが、なんとなく車で大声で歌っていると勇気が出る。眠気もさめる。ということで、震災後の私への応援ソングはヘビーローテーション、最近は「恋するフォーチュンクッキー」となった。
光の海を越え、川崎大師近くの首都高インターをおり、川崎駅へ。地下駐車場を探して、駅の周りをうろちょろ。ようやく地下駐車場についたのは午前7時になっている。二本松農園を出発したのは、昨日の午後1時、それから実に18時間もすぎていた。
すぐに上のマルシェの会場へ。午前8時頃責任者の方にご挨拶。実はこの先が作業的に大変なのである。地下駐車場から上のマルシェ会場までは・・・車から荷物を降ろし、台車に積んで、エレベーターに乗り、上へ。エレベーターを降りてから、大きな通路をなんと100メートルも台車を押し、ようやくマルシェ会場へ。ワゴン車いっぱいの野菜類を小さな台車で運ぶので、これを10回も往復しなければならない。時間はもう9時半を過ぎて、
OPENまであと30分しかない。すぐに、商品の陳列。長机2本の上に陳列用の箱をたくさん並べ、そこに、野菜類をきれいに並べていく。きれいに、といっても、どのように並べればお客さんの目にとまるかもさっぱり分からない。汗をかきかき陳列をやっていると、ついにOPENの5分前。出店者全員集合ということで朝礼が始まる。責任者の人が私を紹介。「今週から福島県の農家の方が参加されます。」と。私が「よろしくお願いします。」というと、東京近郊の参加している農家や加工品関係の方々は、なぜか興味津々の様子。
朝礼が終わり、責任者の方から、「二本松農園さん。OPENの時間ですよ。値札をはやくつけなきゃ。」と言われ、またまた汗をかきながら値札をつける。すべて準備が整ったのは、10時半を過ぎていた。
ただ、土曜日の駅地下の10時代は人通りがあまりなく、遅れてもあまり支障はない。
11時頃になると徐々に人通りが多くなる。目の前を川の流れのように人が通っていく。心の中で「風評被害の真っただ中、はたして買ってくれる人がいるのか?」と思いつつ、ここはいっちょ元気を出してということで、「福島から新鮮な野菜をお持ちしました!」大声で叫ぶ。すると・・・予想外にも・・・人が集まってきた。ほとんどが、30歳以上の主婦らしき人。「福島から来たの?大変だったでしょう。ミニトマト頂戴。」「私も福島出身なの。新鮮そうな野菜ね。きゅうり頂戴。」「福島応援しなくちゃね。ゆべし頂戴。」「私はエシャレット大好きなの。」・・・。次々に売れていく。放射能の事など聞く人は誰もいない。どの店よりも二本松農園の店に一番お客さんが集まってくる。野菜の説明をし、清算し、レジ袋に入れてあげる。一人でてんやわんや。頭が混乱する。「これはいったい何なんだ。風評被害なんかないじゃないか。みんな買ってくれてる。放射能の事も誰も聞かない。」
ためしに、お客さんに「放射能は県がちゃんと検査して、大丈夫なものだけお持ちしてます。」と言うと、必ずこんな答えが返ってくる。「ちゃんと測って持ってきているんだもの大丈夫よ。」「この年になれば放射能なんか気にしないわよ。」どんどん売れていく。しかし、冷静になって、前を行く人を見てみた。寄ってくるのは、中高年の女性だけで、子供連れの主婦層は決して寄ってこようとはしない。他の店には寄っていくのに。
分かった。やはり放射能をまったく気にしていない、ということではない。中高年の女性だけが買ってくれているのである。しかし、この層の数はかなり多い。
10人のうち9人が買ってくれなくても、1人だけでも買ってくれたら、結局それはすごい数となる。東京・埼玉・神奈川・千葉・茨城、首都圏には4000万人が住んでいる。そのうちの⒈割の人だけ買ったとしても、結局、それはすごい数になる。
この時、私は、「やはり福島県産農産物の放射能を気にする人はたくさんいる。風評被害はやはりある。しかし、それを気にしない人も一定数いる。この少数ながら買っていただける人に買ってもらえばいいんだ。」と思った。福島にいると、「東京の人」と一色淡に考えがちだが、東京には、性別も年齢も考え方も違う様々な人が住んでいる。ターゲットをしっかり絞って売っていけば道は開ける。そう思ったのである。
午後2時、マルシェは終わった。マルシェの責任者が近寄ってきてこう聞いた。「売上はどうでしたか?」私は答えた。「完売で売上は15万円ぐらいになりました。」責任者いわく。「それはすごい!マルシェに参加している店の中で一番です。」
これを機に、私は、東京で直接販売を続けていく決心をした。
このように、私が一人で、福島県産農産物を東京に売りに行っている様子は、全国放送のテレビで取り上げられるようになった。
二本松農園を出発し、各農家で集荷している様子。それから、東北自動車道を走っている様子。私が高速道路の走行車線を走っていると、追い越し車線からテレビ局のカメラが追う。わざと、スピードを上げると、隣に座っているディレクターの携帯に「齊藤さんに、もう少しスピードを下げるように言ってください。撮れないです。」そうすると私は、今度は、低速の制限速度ギリギリまでスピードを下げる。追い越し車線のテレビカメラマンはそれを追い続けるので、追い越し車線には渋滞がおきた。
ネットショップの注文が入ると、私の携帯にメールが入るようになっている。時々それが、けたたましく鳴り続ける時がある。それは、私を題材にした番組が放映された時である。たくさんの取材があり、また、テレビ局もランダムに放映していくので、いつ私の事が放映されたのは分からなくなる。ネットに集中的に注文が入った時は、私がテレビで紹介された時なのである。
(デパ地下)
5月のある昼、私は、農作業服に長靴姿で、新宿の老舗デパートT店の地下食料売り場に立っていた。実際、福島県産農産物が売られているのか確かめるためである。
たくさんの野菜や果物が高い値段で売られている。それをず~と見ていく。しかし、福島県産は一品もない。まったくないのである。他のデパートI店の地下も見てみたが、いわき市産のアスパラが寂しそうに5袋ぐらいあっただけであった。
私は、頭に血が上り、フロアの女性店員に「私は、福島県の農家です。責任者の人と話をさせてくれませんか。」と言った。その店員はびっくりして、「今、フロアマネージャーを呼んできます。」と言って慌てた様子で消えた。しばらくして30歳中頃の男性が私に寄ってきて、「何かご用ですか?」と尋ねる。明らかにおびえている様子である。私が、「今、お店を全部見せていただいたのですが、福島県の野菜は、あそこにあるアスパラだけですが、震災前からこんなに福島県の野菜は少なかったのですか?」。すると、そのフロアマネージャーは「前は、福島県の野菜や果物は結構あったのですが・・・。」という。私は、ちょっと語調を強めて「なんで、今は福島県の野菜を置かないのですか。そんな事をしていたら福島県の農家がやっていけないじゃないですか。なんで仕入れないのですか?」。するとフロアマネージャーは「バイヤーが買ってこないんです。」と泣きそうになって言う。私は、さらに頭にきて「バイヤーを呼んでこい。」と大きな声をあげる。フロアマネージャーは「今日は・・・出張で・・・。」と言葉にならない。私は「福島県農家が風評被害でどんなに大変な思いをしているのか分かっているでしょう。放射能の心配がないものは、率先して販売すべきではないですか。来週また来ますので、それまで福島県のものを仕入れてください。」と言ってデパ地下をあとにした。
この頃、私は相当頭にきていた。「なんで、福島県農家がこんなに苦しんで自殺する人まで出てきているのに・・・、東京には、福島県の野菜を食べて応援したいという人もたくさんいるのに・・事実、私が東京で野菜を売るとあんなに買ってくれるのに・・・。」との思い。「福島県の野菜を買って応援したいのに、首都圏のデパートやスーパーにはどこにも置いていない。」というメールは事実だったのである。
(ネットで福島県農産物を売っていないスーパーの調査)
どうしても許せない。
私は、ある時、ネットのブログで「福島県農家は風評被害で本当に苦しんでいる。なのに、福島県農産物の販売を避けているスーパーは許せない。首都圏の消費者の皆さん、ご近所で福島県産農産物を売っている店と、そうでない店を教えてください。二本松農園のブログで、店の実名を公表しますから。」と呼びかけた。すると、すぐに書き込みがあった。
「私は、農産物の流通関係の仕事をしています。あなたのやっていることは、度を越しています。スーパーだって本当は福島県の野菜を取り扱いたいと思っているのですが、中には強いクレーマーがいて、「なんで福島県の野菜を売っているんだ!」と責められるのです。だから店に並べられないのです。流通業者のこのような事情も理解すべきです。」と。私は「普通の状態だったらそのような事も言えると思いますが、福島県の農家の状況は生きるか死ぬかの緊急事態。助けなければならない。クレーマーが来たとしても、「安全が確認されており、出荷停止になっていない野菜なので販売している」と毅然と説明すればいいんじゃないですか。」と反論したものの、なぜか、むなしくなって、これ以上、実名の調査は行わない事にした。
(福岡での出来事)
この頃、福岡市においてこんな出来事もあった。ある市民団体が福島県を応援するため福島県物産展を実施しようとしたが、10数件の苦情があり中止となった。私は、このニュースを見ていて「何を考えているんだ。10件ぐらいの苦情があったぐらいで中止にするなんて。もともとやる気も根性もないんじゃないか。私なんて、「東京に放射能を持ち込む悪者」ということで、ネットで集中攻撃を受ける時もあるのに、めげずにやっている。」
後にこの福岡の出来事を契機に、逆に福岡のボランティア団体との交流が始まる事となる。
(ネットでの攻撃)
二本松農園は、このように、震災直後の3月下旬から、ネットショップを使って風評被害に苦しむ福島県農家の農産物を取り扱い、風評被害を乗り切っていた。しかし、ネットの世界では、たくさんの人が応援してくれるものの、逆に誹謗中傷を含めたメールやブログへの書き込みにもさらされる。「おまえは放射能を東京に持ち込む悪者。」というような内容である。
この頃、福島県庁にも非常に悪質な、脅迫ともとれるようなメールが多数寄せられていたと、聞いている。当農園も例外ではなく、このような被害にさらされていた。
耕作放棄地を開墾し、有機的に、できるだけ安全でおいしい農産物をつくりたい、それをホームページで紹介して全国の消費者と直接結びついていきたい、そんな純粋な気持ちで作ったホームページなのに、それが、脅迫めいた、汚い言葉で汚されていくのを見るのは非常に辛かった。しかし、これらのメールや書き込みに反応すると、さらに拡大する事になるので、反応は極力抑えていたが・・・、善意で、福島県農産物を応援しようとしているお客様のはげましの書き込みに対して、「なんで福島県農家なんかを応援しているんだ。放射能まみれの福島県の野菜を買っているおまえの気がしれない。」というような書き込みをされた時には、どうしようもなく悔しく、「お客様にまで攻撃するんじゃない。」と反撃の書き込みをしたのを覚えている。
ネットは魅力的で有効な手法だが、逆にこのような悲しい現実にもさらされるのである。
(海外の公共放送)
ある時、このようなメールが農園に入ってくる。「いつも東京に来て、新鮮で安全な農産物を販売している・・それを信じて買っていたが、ユーチューブに上がった外国の公共放送の取材動画を見ると、やはり、福島県産農産物は放射能がかなり高いようである。もう売りに来ないで欲しい。」との内容。びっくりしてそのユーチューブ動画を見てみると、誰が見ても、福島県は放射能が強くて住めるような場所ではなく、野菜も基準の何倍もの放射能が出ているとの内容。私は、これは事実を確かめないと、東京のお客様を裏切った事になると思い、この海外の公共放送の行った取材先を再取材する事にした。
まず、その動画では、二本松市の隣である本宮市の農家が、野菜の放射能を測って欲しくて、福島県農業総合センターに行くが、断られ、その足で福島市にある市民放射能測定所に行く。その野菜を測ってみると、数千ベクレルの放射能が検出された。との内容であった。
その市民放射能測定所には、知り合いのH氏が活動しており、その動画でもそのH氏のインタビューの内容で構成されていた。動画では、H氏が「福島県の野菜は、放射能が数千ベクレルのものもある。」となっているが、私がH氏に尋ねると、それは「福島県の野菜」というインタビューの部分と「福島県の野生キノコは、放射能が数千ベクレルのものもある。」の「野生キノコ」の部分を編集で削り取り、「福島県の野菜は、放射能が数千ベクレルのものもある。」としていることが分かった。H氏は、動画を見て、自分の言った事と趣旨がまったく違うため、すぐにその公共放送に抗議のメールを発した。
その後、本宮市の農家とやらも訪ねてみたが、その人は農業者ではなく農家に資材を売っている業者であった。
このような事から、私はその夜「今回の海外公共放送の動画の内容は,編集により、あたかも福島県農産物が危険なように見せたものであり、事実に反する。本日、私が再取材した。」旨、ブログで公表した。私のブログはツイッターに連動しているため、この私の反論はツイッターにも流れた。そうしたらである、その夜、数千件のツイッターの反応があったのである。これを業界用語で「炎上」というらしいが、まさにその状態である。
次から次に、ツイートがツイートを誘発し、どんどん広がっていく。「海外公共放送はデタラメな放送をしている。それを福島県の農家が再取材した。」というような私を称賛するツイートが約7割、逆に「なんで福島の農家がそこまでやるんだ。うしろめたい事があるんだろう。」と私を批判するツイートが約3割であった。この時、マスコミ、特に海外のマスコミ批判を行うと、想像以上の反応がある事を知った。
ネットでの二本松農園の首都圏販売への攻撃は、日を追うごとに増え過激になっていった。単なるネット上のことならいいが、もし、販売している農産物に異物でも混入されたら・・・心配になったので、スタッフに見張りを指示したほどである。
(販売ボランティア)
首都圏への販売を始めてから、次のようなメールも増えてきた。「二本松農園の齊藤さんが、東京にワゴン車で来て野菜を売っている様子をテレビで見ました。ぜひ、販売のお手伝いをさせてください。」というような趣旨である。もっと詳しく聞くと、皆「何とか、福島県農家を応援したいが、仕事があるので、福島県に行く事ができず、東京に居ながらにして福島県農家を応援できる事がないかと思っていた。そんな時、齊藤さんの姿がテレビから流れ、そうだ!この人の販売活動を応援すればいいんだ!それなら、東京にいても出来る!」と思ったとのこと。これについても目からうろこであった。こんなに・・・福島県農業の事を思ってくれる人たちにいるなんて。それも、若い女性の方ばかり。
それからは、その人達とメールで連絡を取り合い、販売のお手伝いをしてもらう事にした。
たとえば、川崎で土曜日に販売する場合、私は、前日から県内農家を回って集荷をし、高速道路を夜通し走って、少し仮眠をとっただけで、土曜日の朝からのマルシェに参加していたため、正直、体はかなり疲れていた。そんな時、女性の販売ボランティアが来てくれると心底うれしかった。「齊藤さんは疲れているでしょう。あとは、私たちが販売しますから、齊藤さんは休んでいてください。」と言っていただいた。数時間休んで店に帰ると、その販売ボランティアの人たちがニコニコしながら「齊藤さん、完売したよ!」と喜んでいた。
私もうれしかった。福島県の野菜を買わない人ばかりでなく、逆に、売ってまで応援してくれる人がいるんだ。日本も捨てたもんじゃない!
「交通費ぐらいとってください。」と私が言っても決して受け取らない。少し売れ残った野菜をプレゼントしようとすると「買うことに意義があるのよ。」と買っていただける。
本当に天使のような人たちばかりである。
販売ボランティアの中には、夕方4時頃になると「齊藤さん、夜のお仕事があるので、これで失礼します。また、来週手伝わせてくださいね。」と言う人も多い。実は、夜の飲食店の仕事なのである。
みんな何かをしたいと思っている。困っている人を助けたいと思っている。でも現在の職場の中では、なかなかそれができない。でも、福島県の野菜を売っている時は、自分を発見できる。自分の存在価値を見いだせる。私だって、人を助ける事ができる。そんな感じである。
販売ボランティアには、色々な性格の人がいる。高らかな声で「福島県から農家さんが新鮮な野菜を持ってきました。ぜひお買い求めください。」と呼ぶ人。ニコニコしながら立っているだけだが、自然にお客さんが集まってくる人。「私はお金を勘定しますから。」ということで、きれいに売上金を並べて数えてくれる人。
震災から3年が過ぎようとする今でも、この方々とは、色々な形でつながっている。私にとっては家族のような存在だ。日本にこのような人がいる限り、福島県農家は生きていける!このような人たちとつながってつながって、少しずつその輪を広げていけば、いつか大きな力になる。ネットショップで福島県の野菜を買い続けてくれている人たちも、きっとこんな思いなのだ。この人たちとつながっていく事が福島県農家の生きる道なのだ。
確かに、風評被害は厳しいが、逆に、このような事を知ることができた。この時、私の心に生まれた言葉、それは「顔の見える関係に風評被害はなし。」である。
(首都圏販売を強化)
東京を中心にした首都圏への直販を強化していこう、と2011年6月私は思った。それには、スタッフと車が必要である。福島県庁を訪れ、何か補助事業がないか聞いたところ、商工労働部で、震災からの経済復興ということで、緊急雇用事業というものがあることが分かった。スタッフの人件費はもちろん、関連する車のリースも補助してくれる制度である。
私は、すぐに首都圏への販売スタッフ12名、ワゴン車3台のリースを内容とする申請を行ったところ、すぐにそれが認められ、7月から本格的な首都圏販売を開始することができる事となった。
しかし、車を停めて売る場所が必要である。最初、東京の路上で車を停めて販売していたが、お巡りさんから「いくら、福島県の農家でも道路で販売するのはまずいよ。」と言われたし、東京の道は狭くて、停められるスペースもあまりない。どこか販売できる場所はないかなあ・・、と考えていたところ、はたとひらめいた。「そうだ、教会はいろんな所にある。キリスト教は、困っている人を助けるはずだし。」
カトリック二本松教会の方に、農園に勤務していただいた事もあり、首都圏のカトリック教会や修道院の名簿を入手することができ、そこにはFAXも記載してあった。すぐに、「どうか、福島県農家を助けるため、教会の敷地を貸してください。」と、たくさんの教会にFAXでお願いしたところ、かなりの教会から「うちの教会の敷地で販売してもらっていいです。特に、日曜日には、どこの教会でもミサがありますので、効果的だと思います。」とのこと。さっそく、武蔵野市の吉祥寺教会で毎週日曜日販売させていただく事になった。
吉祥寺教会の場合、日曜日には、朝7時半をはじめとして、1時間半おきに4回のミサがあって、多い回には100名以上の信者の方が教会から出てこられる。そこで福島県農産物を買っていただこうというものである。「福島県の農家が、わざわざ東京まで販売に来ているんだからぜひ買わねば。」というお気持ちは強かったと思うが、それを毎週繰り返していると、「野菜はいつもここから買う。」というように日常化するのである。時々は、ミサの終わりに、福島県農業の現状についてお話しさせていただくと、これまた効果抜群である。神父様からもお話しいただく。
吉祥寺教会のG神父様は、特に親切で「私も、新潟大空襲を経験し、本当に辛い思いをしたので、福島県農家の辛い気持ちは痛いほど分かる。」と言い、ミサが終わると、真っ先に教会の建物を出てきて、帰ろうとする信者を通せんぼしながら「おいしい福島の野菜を買ってください。」と言ってくださる。さつまいもを販売した時には、すぐに自宅に帰って、焼いてきて、おいしそうに食べながら「こんなにおいしいさつまいも、さあ、買った!買った!」とやってくださる。本当に人間味あふれる神父さんだった。
吉祥寺で福島県農家が野菜を販売しているという話はすぐに広まり、目白の教会でも入口で販売させていただける事になった。1ケ月に1回ではあるが、田園調布教会でも。それがさらに広がり、目黒教会、高輪教会、渋谷教会、川越教会と広がっていった。
しかし、教会のミサは日曜日に限定されるので、スタッフを12人も抱えている以上、平日も販売を行いたい。まもなく、多摩市にあるNPO代表のNさんから、販売のお誘いをいただき、毎週水曜日、多摩ニュータウン内の商店街の一角で販売する事が可能となった。
多摩市は、福島県から行くと、東京の反対側にあたるため時間がかかる。片道300キロを超える。水曜日の朝4時に二本松市を出発し、多摩市に到着するのが9時頃。それからセッティングをして販売し始める。しかし、多摩ニュータウンは、高齢化が進んでおり、商店街を歩いている方は少ない。その分、ゆっくりとお話しできるという良い点はあるが、売上的には教会の4分の1程度であった。古い多摩ニュータウンにはエレベーターがない。お買い求めいただいた野菜をスタッフが住宅の3~4階までお持ちすることもあった。戦後の高度経済成長期を思い出し、多摩におじゃまするたびになつかしい思いがした。
小田急多摩センター駅周辺は、多摩ニュータウンとは違って、逆にディズニーランドに行ったような感じの街並みである。サンリオピューロランドがあるせいだろうか。
この駅前のビルで、主婦の皆さん50人ぐらいと「福島県の放射能の現状」についてお話しさせていただいた事があった。みなさん、私が福島県の農家ということで興味津々であったが、「福島県の農産物からは、放射能はほとんど検出されなくなっていること。」「すべて検査を行っていること。」「残念ながら、山のきのこは壊滅状態で、大豆や柑橘系の果物からは若干ながら放射能が検出されること。」等についてお話しさせていただいた。
東京でお話しさせていただく時、私は「今のお話を聞いて、福島県の野菜を今後食べてくださいますか?」と会場の人に聞くことにしている。すると、大半の人が「食べる」と手をあげてくださる。これを見るたび、いかに情報不足かを感じる。福島の状況をありのままに説明すれば、他の県の人も福島県の事をご理解いただけ、福島県産農産物を食べて応援いただける。しかし、福島県農業の現状があまり伝わっていないので、半信半疑となり、結果として福島県産農産物の消費が避けられているように思う。忙しい農業という仕事の中で東京まで行くのは大変であるが、お呼びいただければおじゃましてお話しさせていただくことにしている。特に、福島県の農業者が直接話すと、皆さん良く話しを聞いてくださる。
東京都北区でお話しさせていただいた時も同じような状況であった。
会場には100人もの方々が来てくださり、2時間にわたり熱心に私の話を聞いてくださった。いつものように、「では、福島県の野菜を食べていただけますか?」と最後に聞くと、たくさんの方が一斉に手をあげてくださったのには、とてもうれしかった。ただ、その時ある男性が手をあげ「齊藤さん私は食べるよ。でもね、まだ孫には食べさせたくない。」とおっしゃった。私は「自分が何を食べるのかは自由です。いくら、放射能を測っている、放射能は出ていない、と言っても、子供にはなんとなく食べさせたくない、という気持ちは分かります。ここまでくると、測っているとかいないとか、の以前の問題だと思います。」という私がいうと、その方も会場の方もうなずいていた。
東京日比谷公園で集会に呼ばれた時は、有名な元歌手のK氏とステージで対談することになった。事前の打ち合わせの際、私が、「福島県の野菜からは放射能がほとんど出なくなった。」というと、K氏は「齊藤さん。そのお話しはしない方がいい。反原発を進めるためには、原発は危険だということを伝えなくてはならない。」と言った。私は、「そのような姿勢ではダメです、必要なのは、正確な情報を全国民に伝える事です。この情報は伝える、この情報は隠す、というような事をやっていると、結局、市民は半信半疑となり、信用してくれなくなります。大事なのは、放射能が出ている野菜、出ていない野菜を正確に伝える事です。」と申し上げ、ステージでもそのような内容を話した。
(販売スタッフ)
2011年夏からは、このように、主に首都圏販売のために、12人のスタッフを雇用し、水曜日は多摩市、金曜日は港区周辺、日曜日はカトリック教会を中心に販売活動を行っていた。
日曜日の教会向け販売の例をとると、土曜日にスタッフが主に県北方部の農家を回って果物や野菜類を集荷してきて、夜6時頃から倉庫で詰め替えを行う。集荷してきた野菜類をいったん車から全部下ろし、教会ごとに車に積み替える。東京は販売する場所によって、売れるものが微妙に違う。私が、「吉祥寺はこの野菜20、目白10、田園調布15」のように指示し、詰め替えを行っていく。販売する果物や野菜は50種類もあるので、この詰め替え作業は2時間くらいかかり、夜8時か9時ころまでかかり、スタッフは一旦自宅に帰り、仮眠する。朝4時集合で東京に向け出発する。
スタッフは二本松市の事務所から30キロも離れている者もいた。往復の通勤時間を差し引くと仮眠時間は、3時間程度だったと思う。それでも12人のスタッフは文句ひとつ言わず、やりがいをもって東京への販売をやってくれていた。いずれも、色々な事情で会社を辞めた者が多かった。でも、いいスタッフばかりであった。
私は、いつも「オレたちは、単に野菜を売っているだけではない。風評被害に困っている農家の野菜と、それを食べて応援したいというお客様をつないでいる。すごい事をやっているんだ。」と説明していた。どのスタッフもイキイキとして仕事をしてくれた。いずれも20歳代の若者であった。
片道250キロもの距離を車で往復していると、交通事故に巻き込まれる危険性は格段に高くなる。結局1年間で事故はなかったが、巻き込まれそうになった時はある。
夏だったと記憶しているが、東京販売を終え、夜7時頃、私も含めてスタッフ3人で東北自動車道下り車線の宇都宮インターチェンジを過ぎたあたりを走っていた時、大変な事がおきた。
向こうから、車が高速道路を逆走してきたのである。
若い24歳の男性スタッフがワゴン車を運転、私は、助士席で疲れでうつらうつらしていた。追い越し車線を時速100キロぐらいで走っていた時、運転していたスタッフが、突然「何だ!」と大きな声をあげた。私が目を開けると、追い越し車線の反対側から猛スピードで乗用車が近づいてくる。反対車線ではなく、同じ車線を逆走してきたのである。こちらが時速100キロ、逆走してきた乗用車は時速150キロぐらいの猛スピードに見えた。スタッフが「何だ!」と叫んでから、逆走の車が目の前に来るまで、3秒ほどしかなかったと思う。左の走行車線側には別の車が平行して走っていたため、スタッフはワゴン車をやむを得ず中央分離帯側にハンドルを切った。
逆走してきた車は、ワゴン車の左側をまさに鉄砲玉のようなスピードですり抜けていった。
ぶつかれば、こちらが100キロ、あちらが150キロ、相対速度で250キロ。250キロでブレーキを踏まずに、壁に激突したと同じ状態になるので、たぶん、衝突していれば、スタッフと私も即死だった。
何とか逆走車はかわしたものの、運転していた若いスタッフは恐怖で震えていた。私は、「そこの、上河内サービスエリアに停車しなさい。」と言い、車は停車した。
運転していたスタッフはガタガタ震え、とても運転できるような状態ではない。私は携帯電話で110番をした。
「今、東北自動車道、上河内サービスエリア付近の下り車線を走っていたのですが、乗用車がすごいスピードで逆走しています!」と。110番の先のお巡りさんも、興奮した口調で「今、その110番がたくさん入っています。あなたの車は無事でしたか?」との話。
その後、ニュースにはならなかったので、大事故には至らなかったようであるが、これが、東京販売をしていて最も危険な思いをした時である。
福島駅前で販売していた時にはこのような事もあった。
県の販売イベントで、福島駅前通りにたくさんのテントを並べ、二本松農園も野菜類を販売していた。すると、30歳くらいのチンピラ風の者が店に寄ってきた。
他の店で酒を試飲したようで、酔っているように見える。
その男は、うちの女性スタッフに「こんな放射能のおそれのある野菜を売りやがって。」と言って、因縁をつけてきた。私が「ちゃんと放射能を測って、丹精込めて農家がつくった野菜だ。何が悪い。」と言うと、その男は「生意気な事をいいやがって」と叫び、持っていたキセルで試食用のサラをかち割り、立ち去ろうとした。私は、許せないと思い、携帯で110番をしながら、その男を追いかけた。
30メートルぐらい追いかけるとその男が前を歩いていた。私が「警察に一緒に来い。」というと、その男は、私に突進してきた。私は、柔道の経験があったので、その男の足を払い、倒れた男の首を抑えながら寝技に持ち込み、周りの人に「みなさんこの男を抑えてください」と叫んだ。同じく出店していた他の店の人も数人応援してくれ、男を抑えてくれた。私は男を抑えながら「おまえを器物損壊の現行犯で逮捕する。」というとその男はバタバタあばれる。しかし、寝技でしっかりと押さえつける。
まもなくして警察官がたくさん来て、男は、警察に連行された。
一般の人が現行犯逮捕したため、私も、警察に呼ばれ、逮捕した様子をこと細かく聞かれ、その日の午後の販売はできなくなった。夕方、警察から店に戻ると、店の商品がほとんど売れていた。女性スタッフに尋ねると、「他の店も、あの男には困っていて、二本松農園が捕まえてくれたので、感謝して、他の店の人が野菜を買ってくれた。」とのこと。
数多い販売をやっていると、このように色々な事が起きるのである。
2011年夏、福島産の桃は風評被害の真っただ中にあった。ある夜、こんな出来事があった。
いつもように私が二本松農園の事務所で仕事をしていると、お父さんとお母さん、小学生の女子二人、計4人の家族が事務所を訪ねてきた。聞くところによると「県北の桑折町で桃の専業農家をしているが、風評被害で桃がまったく売れなくなってしまった。何とか助けて欲しい、」とのこと。私が、女の子に「お父さんのつくった桃はおいしいかい?」と聞くと、その女の子は「お父さんのつくった桃はすごくおいしいの!でも、売れなくて困っている。」と明るい声で応え、ワイワイと事務所を走り回る。その女の子の首には、学校で配られた積算放射能測定機がかけられていた。
私は「そうか、そんなにお父さんが一生懸命作っておいしい桃が売れないなんて、おかしいよね。おじさんがたくさん売ってやるからね。」というと、その女の子は、またワイワイと喜ぶ。
さっそく、ネットショップに載せるために写真を撮る事にした。家族4人がそろい、女の子が桃を持って、ニコニコしている写真を撮った。
商品の名前は、「お父さんがつくった、おいしい桃」とした。この頃、ネットショップのブレーク状態は終息していたため、ネットショップの売上だけでは多数の販売は期待できない。この時、東京にある会社から、福島支援ということで、数千ケースの桃の注文が入っていたので、このうち500ケースを、この家族に注文する事にした。これにより、この家族はこの夏、風評被害を乗り切ったのである。
2011年の夏、私は、スタッフとともに、東京で桃と農園のきゅうりを中心に売りまくっていた。しかし、夏の東京はすこぶる暑い。2日間の販売の時などは、夜、桃や野菜を冷やすために、ワゴン車のエアコンをかけ、車の中で仮眠する生活を続けていた。
そのような時、販売会場に、新宿にお住いのKご夫婦が訪ねてきた。その奥さんが私に「齊藤さんの活動はテレビで良く見ています。ネットでも二本松農園のきゅうりを買っているけど、すごくすごくおいしいの。ところで、東京に販売に来た時、夜はどこに泊まっているの?」と聞かれたので、
「野菜の鮮度が落ちるといけないので、車のエアコンをかけて、野菜と一緒に車の中で寝ています。」と言うと、その奥さんは「それは大変ね。だったら、うち新宿に事務所があって、エアコンもきくので、そこを使いなさいよ!お風呂もあるわよ。」とのこと。私は、東京で事務所を貸していただけるなんてうれしくて「いいんですか?ぜひ、お願いします。」と言った。
さっそく次の週から新宿の事務所を貸していただける事になった。
このKご夫婦は、ビルメンテナンスの会社を経営されており、その事務所も、メンテの掃除用具がある倉庫の奥にあった。
六畳の部屋にはエアコンがあり、隣にはお風呂もあった。
野菜や桃を部屋に入れると、六畳の部屋には、スタッフが一人分しか眠るスペースがとれないので、残りのスタッフや私は、部屋の外の廊下で仮眠をとった。でも、お風呂があるので、サッパリとした感じで、車の中で寝ていた頃とは、夢のようにありがたい世界である。野菜や桃の鮮度も保つ事ができる。
部屋に野菜や桃を入れてエアコンをつけ、がんがんに冷やして、部屋の電気を消した時、その奥さんが見に来た。「齊藤さん、きゅうりや桃さんが、スヤスヤ気持ちよさそうに眠っているネ。」と。私も「ありがとうございます。きゅうりや桃が気持ちよさそうです。」と言い、二人で笑った。
とても、とてもありがたかった。
風評被害の元である東京には、逆にこんなにも親切な人がいる。福島県の野菜をとてもおいしいとも言ってくれる。
ただただ、ありがたい、という気持ちだった。
(さらなる風評被害)
秋になった。福島県の水田も黄金色に輝き、実りの秋である。「福島の軌跡」により、収獲された米からも、放射能はほとんど検出されない。二本松農園産のコシヒカリを検査しても、最高でも15ベクレル程度で、規準の30分の1程度である。
稲刈りを終え、二本松農園では、東京でこの米を販売していた。
福島県でも県知事が、福島県産の米の「安全宣言」をした。それから1週間後、なんと、基準の500ベクレルを超える福島県産米が発見されたのである。
知事が安全宣言したのに、規準超過米発見。これは、大きく報道された。
その基準超過米が発見された水田は、二本松農園から原発方向にわずか5キロしか離れていない場所であった。
国民の間に「知事が安全宣言した後に基準を超える米が出るなんて、福島県の検査体制はいったいどうなっているんだ。」という思いが広がった。
実際、東京で販売していても、こんな事は今までなかったのに、お客様から「基準を超える米が出たのよね。」と言われるようになり、米や野菜の売れ行きが急に悪くなった。私は、「県のピックアップ方式の検査はもう信用されない。自分で放射能を検査できる体制をつくるしかない。」と強く思った。
東京販売から帰り、私は、すぐに、福島市にある市民放射能測定所のH氏に、「どうしても農園の中で放射能を測りたい。貸していただける測定機があったら貸して欲しい。」とお願いした。するとH氏は「1台あります。」とのことだった。
次の日、スタッフとともに、車で福島市まで測定機をとりに行った。機械は、100キロぐらいの重さがある。慎重に慎重に運搬し、農園の事務所に設置した。
私にとって、この測定機は宝物のようで、それからは、ネットや東京で販売するもののすべてをこの測定機で測ることができた。
販売していても「農園内に放射能測定機を持っていて、すべての販売品を測っています。」と言うとお客様の顔は明るくなり、売れ方も全然違った。
その後も、二本松市内のマンション建設時に使われた砂利から放射能検出、福島牛の肉から基準超過の放射能・・・というように、忘れた頃に次々と問題が報道されると、一旦回復しかけた風評被害がまた逆戻り、一進一退の状況が続くことになる。
それでも、地道に放射能を測り続ける、これしかなかった。
風評被害というか、福島県の野菜を食べない風潮は、福島県内の方がかえって強かった。
おじいちゃんおばあちゃんは、孫などの家族に食べて欲しくて野菜をつくっていたのに、それが若夫婦が食べなくなったため、やりがいを失い、農業をやらなくなった高齢者は多い。
震災前までは、野菜や米をつくり、農協や道の駅に出荷して、わずかばかりの収入、福島県では、これを「ほまじ金」というが、それをとって、孫にこずかいをあげる事が、じいちゃんばあちゃんの喜びだったが、観光客も福島県を訪れなくなったため、道の駅でも農産物が売れなくなった。高齢者はやりがいを失い、農業をやめていく。また、ある朝起きたら、一緒に住んでいた若夫婦が孫と一緒に県外に避難してしまった、という話もあった。
この時期、市役所に設置された放射能測定所を訪れたのは、販売農家よりも、高齢の農家が、「孫にこの野菜を食べさせて大丈夫か?」ということで測定を依頼することが多かったのである。
近所のおばあちゃんと話をしたことがある。そのおばあちゃんは「齊藤さん、セシウムというのは不思議だない。(134と137の)2種類があるっていうじゃないかい。」と話していた。80歳近いおばあちゃんが、セシウムの元素の話をする、それくらい、福島県農家は放射能に対峙する必要があったのである。
2011年の冬になった。雪降る中、東京の屋外で販売するのはすこぶる辛い。特に、港区での販売は、障がい者施設の玄関先をお借りして販売していたため、寒風がすごい。そこでテントを張って一日中販売を行う。
金曜日の朝早く、港区に販売に行くスタッフを事務所で見送る。夜9時になっても帰ってこず、夜11時頃ようやくスタッフが帰ってきた。聞けば「雪でお客さんが少なくて、午後4時になっても野菜が売れ残っていたので、夜6時までねばり、声をからして売ったら、ようやくすべて売れた。」とのこと。スタッフの持ち帰った金庫には、10万円の売り上げが入っていた。風雪の屋外で、1日でこれだけの売上を上げる事がどんなに大変なのか、私にはよく分かる。それでもスタッフは、明るい顔で、「初めて港区で10万円を超えた!」と喜んでいた。人と話をするのが苦手で、就職できなかったI君は、もうすっかり、お客様と話ができるようになり、明るくなった。
ほんと、二本松農園のスタッフは、いいやつばかりだった。この若者たちとず~と一緒に仕事をしていきたいと・・・と思っていたが、現実はそう甘くない。それから、約3ケ月後、農園スタッフも含め全部で19名のスタッフ全員を失う事になるのである。
(架設住宅への販売)
二本松市には、約3000人の浪江町民が避難し、架設住宅で暮らしている。二本松農園の事務所の近くにも、元小学校跡地にたくさんの架設住宅が建っている。隣接する本宮市、三春町、福島市、郡山市にも原発周辺から避難されている方々がたくさん住んでいる。
東京への販売は、水曜日の多摩市、金曜日の港区、日曜日の吉祥寺をはじめとするカトリック教会の週3日であるため、その合間に、県内の架設住宅への農産物販売を行う事にした。
これの中心は、神奈川県厚木市出身で、震災後、南相馬市などにボランティアで訪れていたK女子。2012年1月から、二本松農園の販売スタッフとして働いてもらう事になった。27歳ということでまだ若いが、神奈川ではトラック運転手をし、お母さんと二人暮らしの家計を支えており、明るくしっかりとした女子であった。私が、「架設住宅の販売をやってもらえるか?」というと「いいよ!」ということで、雪の中を販売してくれていた。
夕方「齊藤さん、今日は7000円しか売れなかったよ・・・。」と雪で冷たくなったお金を握りしめてさみしそうに帰ってくる。私が「大丈夫!県内の販売は交通費があまりかからないし、それに、架設住宅への販売は、避難している人と仲良くなって、心を癒してあげる、ということも大切だよ。」というと、K女子は明るくなり「そうなんだ。がんばるよ!」と必ず言う。いいやつだった。
K女子は、最初、川崎で私が販売を始めた頃、ボランティアとして来てくれたのが始まりだった。母子家庭で苦労して育ったが、「かあちゃんを助けるんだ。」ということで、トラックの運転手をしたり、夜の飲食店で働いたりしていたが、震災後は、南相馬市の海の近くで「洗浄ボランティア」ということで、津波で流された写真を一枚一枚拾い集め、洗って、持ち主に返すというボランティアをしていた。
ある日の夕方、Kから電話がかかってきた。「齊藤さん、お願いがあるんだ・・・。今、三春町にある川内村の架設住宅に来ているんだけど、子猫が捨てられていて、とてもかわいいんだけど、持ち帰ってもいいかなあ。」との事、事務所は借りていたため、猫を持ち込むのはちょっと・・・、と思ったが、「とりあえず、連れてきたら。」と言った。
まもなく、Kが子猫2匹を連れて事務所に帰ってきた。「齊藤さん、かわいいでしょ?事務所で飼いたいよ。」と私にお願いする。私は「じゃ、外で飼う」ということでOKした。
私は、段ボールで急きょ、猫小屋を作り、その小屋に「猫の架設住宅」と名前を書いた。Kは「猫の架設か、おもしろいじゃん。ところで、猫の名前は何にする?」というので、二人で考えた。どちらも子猫で白くてかわいいのだが、一匹は真っ白、もう一匹は目の周りが、茶色くなっており、まるで狸のようだったので、「シロ」と「タヌキ」という名前にする事にした。
Kは「わーい、シロとタヌキか、かわいい。」ということではしゃぐ。それからは、シロとタヌキが二本松農園販売チームのマスコットになった。
(石巻)
季節は戻るが、2011年のある夏の日、私は、石巻の津波被災地を訪ねた。ネットで募金を募り、それで、福島県の野菜を三陸や宮城県沿岸の津波被災地に送っていたが、ある時メールが入り「支援のため送られて来る野菜を、被災者ではなく、自分の経営する居酒屋で使っている。」との内容であった。私が、送っているNPO団体に確認のため電話をすると、NPOの方は「実は、一緒に活動していたスタッフが辞め、当NPOを批判しているもので、支援いただいている野菜類は、小学校の給食や、津波被災地で配布している。」とのことだったが、私は「私も、全国から善意で募金を受け、野菜をお送りしているので、それが適切に使われているかどうか確認する義務があると思っている。現場にお伺いし確認したい。」と言い、野菜を主に送っている石巻市に向かう事にした。
朝、二本松市を出発し、東北自動車道を北上、石巻市にはお昼前ころ到着した。そこは石巻市の市街地から15キロほど北部の、北上川が太平洋に流れ込む地域で、川の両側には山がある。その内陸側から北上川沿いを太平洋に向かって車を走らせていると・・・、津波に流された家の土台と、今だに陸に打ち上げられた漁船が放置されている。海からは、10キロも離れているのに、ここまで船が流されているなんて・・・。北上川沿いの両側に山がそそり立っているため、川を逆流したきた津波は、広がる場所もなく、陸地の奥へ奥へと流れ込んだものであった。当然、津波も高かった事が予想される。
そんな荒涼とした風景を見ながら車を進めると、左手に小さな小学校が見えてみた。ここが、目指す場所である。
小学校の駐車場に車を停めるが、なんとなく、夏なのに草などの緑が少ない。聞くところによると、この小学校の2階部分まで津波が来た影響だった。
私が車を降りると、一人の女性が近寄ってきた。「お待ちしていました。震災後、ボランティアをやっているものです。」とのこと。
一緒に小学校の体育館に行くと、そこではやはり、東京から来たのであろうか、ボランティアの方々が児童を前に演奏会をやっていた。「齊藤さん、これが今日の給食のスープです。」とプラスチックのカップを渡された。中には、コンソメ風のスープと、さみしげに、玉ねぎが2~3切しか入っていなかった。私がそれを飲んでいると、ボランティアの女性の方が「この辺の津波被災地では、このように野菜が不足しています。なので、二本松農園から送ってもらっている野菜は非常に助かっています。たとえば、送らてくるきゅうりは、給食に使わせていただいたり、浅漬けにして、被災者に配ったりしています。」とのことだった。
ボランティアの代表の方と一緒に校長室へ。校長から津波の時の様子などを聞く。
「この地区には北上川沿いに二つの小学校があったが、いずれも津波の直撃を受け、多数の児童と先生が亡くなった。児童が津波で何キロも流され、木にしがみついているところを助けられたケースもあった。この小学校でも、屋上に児童と先生が避難し、そこで一夜を明かした。」とのこと。
私が「全国からの募金で野菜を時々送らせていただいています。それは、給食で使われていますか?」と質問すると、校長は「たしかに使わせていただいております。現在、青物野菜が不足し、児童の給食は、魚類が中心となっているので、お送りいただいている野菜は非常にありがたい。また、このボランティアの方々の活動にも感謝している。」とのことであった。私は、校長に「こちらに来てみて、津波で大変な被害を受けたこと。そして今でも野菜が少なくて苦労されていることが良く分かりました。今後とも野菜を送らせていただきます。」と言った。
校長室を出ると、先生と子供たちが私に集まってきた。ボランティアの女性が「この人が
福島県の農家の方で、きゅうりなどを送ってくれている人ですよ。」と言うと、子供達が一斉に「ありがとうございます。」と元気に言ってくれた。
私は、「来て良かった。」と思いながら、校舎をあとにした。
振り返ると、夏空に小学校。その前の校庭からは、砂ぼこりが空へと舞いあがっていた。
(宅配事情)
このように、全国からの募金により、宮城・岩手県の津波被災地に、福島県の野菜を送っていたが、宅配事情は会社によって違っていた。
Y会社は、沿岸の流通施設が津波に流されたところもあったため、なかなか、三陸沿岸へ届けるのは難しかったが、S会社は、「何とか、津波被災地に物資を届けたいので、ドライバーが三陸まで入って行っています。」ということで、届けてくれていた。頼もしかった。
野菜を送る先も、良く確認する必要があった。ボランティア団体の事務所に送ればいいのだが、その事務所の拠点はいったいどこなのか、ボランティアが作業で不在の事も多いので、二本松農園スタッフは、頻繁に現地と携帯電話でやりとりをして、送る場所を決めていた。
(経営危機)
2012年の年が明けた。相変わらず、スタッフ12人による東京での販売と、架設住宅への販売は続けていた。しかし、福島県の場合、2月から4月頃までは雪が降り、売る野菜や果物はほとんどなくなる。少しの野菜と、果物はリンゴ、そして、ゆべしや味味噌、豆菓子などの加工品、そして米などを販売していた。しかし、売るものが少ないので、売上は夏の3分の1程度となった。それでも、二本松農園の販売スタッフは、雪の中を、吉祥寺、目白、多摩、港区に販売を続けていく。朝4時に出発して、雪の中を販売し、夜10時頃二本松の事務所に帰ってくる。雪の中、東京の屋外で販売してくるので、スタッフはくたくた。でもスタッフは愚痴ひとつ言わず、明るく販売を続けてくれていた。東京から帰って来ると、みんなで売上の精算を行う。1号車、吉祥寺の売上10万円、2号車、目白の売上4万円というように。東京まで行くには、ガソリン代や車のリース料がかかる。販売するものも、自分の農園のものではなく、県内農家のものを仕入れていくため、販売利益は少ない。交通費を差し引くと手元には、ほとんど現金が残らなかった。
冷静に考えれば、福島から東京まで、たくさんのスタッフを使って、車で農産物を販売に行くというのは、採算をとるのは難しい、という事は分かる。しかし、何とか、風評被害で苦しむ福島県の野菜を、東京に持っていきたかった。東京では、福島県の野菜を待っていてくれる、たくさんの人たちがいる。そんな思いで東京販売を続けてきた。東京販売を始めてまもなくから、「これは採算をとるのは難しいなあ。特に冬をどう乗り切っていけばいいのか・・?」とは考えていた。しかし、「後には引けない。続けるしかない。」ということで、採算性には目をつぶり続けてきた。
東京販売のスタッフの給料は、県の緊急雇用対策の委託事業でまかなっていた。その事業も2012年3月で終了となる。4月以降、スタッフの給料を払える見込みがたたなくなった。スタッフがいなければ販売を続ける事はできない。
2月下旬、東京都北区で環境団体の集会に呼ばれ、講演を行う事になった。講演までの3時間、私は、近くの公園にいた。ベンチに座り、ボ~と庭を眺めて夢遊病者のようになっていた。どうしていいか分からない。何も行う気力も湧かなくなっていた。
講演を終え、遅くなったので、さいたま市に借りていたアパートへ。このアパートは、冬の間、もし、スタッフが雪で東京から帰れない事があるといけないと思い、借りていたものであった。アパートに入って電気を点けようとしても点かない。電気料の滞納でとめられていた。暗くて寒いアパートで一夜を明かした。「この先どうなるんだろう。」頭がぼ~として何も考えられなくなっていた。この時あたりから「死」という考えが頭に浮かぶようになっっていた。
(死への旅)
3月上旬、私は、二本松市から南に向かって車を走らせていた。行くあてはない。でも、なぜか東京に向かっていた。ここ1年、東京をはじめとして全国の方々に応援いただいた。私にとって、東京はふるさとのようで・・・そんな思いだったのだろうか。夢遊病者のように国道4号線を南下していく。夜9時頃、さいたま市のアパートに着いた。電気を止められたアパートで、うつらうつらとして過ごした。朝8時、また車を走らせて千葉の方に向かった。幹線道路ではない。狭い道を走っていた。でも目的地はない。次の交差点を右にいくのか左にいくのかも決まっていない。どうしていいか分からない。人間、目的がないことほど辛いことはない、とこの時思った。
アクアラインに入った。海ほたるの手前あたり。冬の海は大きな波しぶきをあげている。
「ここから飛び込めば」と思い、スピードをあげて左にハンドルを切ろうとするが、そこまでの勇気はなかった。
逗子あたりだったと思う。大きな立体駐車場があったので、そこの3階に車を停めた。一夜をその駐車場で過ごす。ワゴン車の後ろにうずくまり、やはり意識はもうろうとしていた。
次の日の朝がきた。なぜか、お腹が少しすいてきた。気が付けば、福島を出て2日、何も口にしていなかった。「でも、死ぬ人間が食べ物を食べる意味があるのだろうか?」などと思いながらも・・・駐車場を出て、近くの牛丼屋に入った。
箸が重く感じられるが、米を食べているうち、なにか力がわいてくるような気がした。
「もう一度やってみるか。」という気持ちが出てきたのである。
車は、福島の方に向かっていた。2日前から電源を切っていたスマホの電源を入れる。
たくさんのメールが入ってくる。娘から「パパどこにいるの?みんな心配しているよ。」
とのメールが目に入った。スマホをとり妻に電話をかける。すぐに妻が出る。妻は声にならなかった。私が「今、東京にいる。これから帰るよ。」というと、妻は泣きながら「今、神様のところに来ているの。家族みんなで、パパを助けてください、とお祈りしていたの。」
と。
夕方、二本松に着いた。心配して、スタッフと知り合いが事務所に来ていたとのことであるが、私が到着する前に、気を使ってみんな帰宅していた。
妻と娘と息子が、事務所で待っていた。娘が「パパ、私、アルバイトでも何でもしてパパを助けるから。」と言っていた。その晩は、久しぶりに枕を並べて家族4人寝た。
(スタッフ全員に解雇通告)
次の日、農園スタッフ19人を事務所に呼び、私は、土下座をしながら「申し訳ない。私の力不足で農園を維持する事ができなくなった。4月以降給料を払える見込みがない。3月末をもって雇用を終了させて欲しい。」と言った。なにも、全員を解雇する必要はなかったのかも知れないが、私の気持ちとしては、スタッフ皆、一生懸命やってくれていたので、このスタッフを残し、このスタッフは解雇というような選択はできなかったのである。私の話を聞き、スタッフは私を責めることなく、だまって部屋を後にしていった。
(最後の販売)
2012年3月26日、東京販売の最後の日となった。夜、スタッフが東京から帰ってきて、いつものように売上を数えた。私は「もう、つり銭の小銭は使わないので、みんなで分けて欲しい。」というと、みんなは「ありがとうございます。」と明るくワイワイやりながら小銭を分けていた。事務所を出ていく時も、私を責めるような事はなく、みな「お世話になりました。」と。「ほんとうにみんな御免な。」私が言える唯一の言葉だった。
厚木市から移り住んで販売スタッフとなっていたK女子を、郡山駅まで車で送っていった。車の中で私が「K 本当ごめんな。」というと、「本当そうだよ。せっかく架設の人とも仲良くなったのに。」と明るく答える。郡山駅の前で見送り、これですべてのスタッフはいなくなった。
(タヌキの死)
3月下旬の夕方、事務所前の道路に、例の猫、シロとタヌキのうちタヌキが倒れていた。車にはねられたらしい。体はまだ温かいが、ぐったりとして口からは血をはいていた。
「Kがかわいがっていたタヌキ、何とか目を開けろ。」と私は思ったが、だんだん冷たくなっていく。「猫の架設住宅」に寝かせ。毛布をかけた。
次の日の朝、すっかり冷たくなったタヌキを抱え、私は、二本松農園の高台に立っていた。
福島第一原発からちょうど50キロ。その土は1000ベクレルの放射能で汚染されているが、「福島の奇跡」で作物から放射能は出ない。
私は、その畑の脇の一番日当たりの良い場所で、農園が一望できる場所にタヌキを埋める穴を掘った。3月下旬なのに、凍って固い土。それでも、スコップで堀り、その穴にタヌキをそっと置いた。
「タヌキも死んだ。スタッフも全員いなくなった。でもここから始めるしかない。」
振り返ると、村の水田が見える。雪も消え、田植えの時期が迫っていた。(第4話につづく)
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- 2019/01/20(日) 09:21:37|
- 二本松農園の1000日
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2014年に発刊したこの本ですが、このたび、二本松農園代表齊藤登のブログで連載させていただくことにしました。2011年に発生した東日本大震災により、福島県農業は、放射能対策や風評被害で大きな影響を受けましたが、
実際、福島県の農業現場で、どのような事が起きていたのかは、なかなかまとまったものがありません。
この本は、福島第一原発から50km、二本松.農園がこれらにどのように取り組んできたかを農業者の立場から
ありのままに書いています。
これをご覧いただくと、福島県農業はもとより、広く消費者と農業者との関係、日本の農業の未来も見えてくるような気がします
。ぜひ続けてご覧ください。2019年1月10日から連載開始です。
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福島県内54の農家で直接運営
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第1話
第2話
(東日本大震災)
2011年3月11日、二本松農園では、春野菜の種撒きのため、「公園南」と呼んでいる畑でスタッフみんなで、小型耕運機を使い、畑を耕していた。
二本松農園は、里山の傾斜地にあるため、わりと小さい畑が集まったものとなっている。畑の数が多いことから、スタッフとの打ち合わせを行う時、畑に名前をつけておかないと、なかなか打ち合わせ内容が伝わらないので、個性的な名前をつけている。農園の中央部には、「公園」と呼んでいる高台があり、そこには、立派な「ソメイヨシノ」の桜が2本あり、村に広がる水田や畑が一望できる。この日の作業は、この公園の南側にある畑、なので「公園南」なのである。
14時46分、耕運機を運転していた私は、最初「めまい」がしたのかと思った。
なにか、自分の体がフワフワ浮き出しそうな。耕運機から視線を上にあげると、畑が波打って動いている。高台の公園に目を移すと、公園自体がゆっさゆっさと揺すぶられている。山が大きく揺れる様子もはっきり見れる。「山が崩れてくる。」と思った。耕運機を止め、
スタッフとともに、しばらく畑にしゃがみ込む。5分くらい過ぎると地震はいったん止まったように感じたが、また、立っていられないような激震が襲ってくる。畑は横に動いている。山は、その調子とは別に横に揺さぶられている。空気は・・・地面や山とはまた別に動いている。地形と自然がみんなバラバラに動き出しているように感じる。
空が、急に暗くなったように感じた。いや、向こうの空は明るい灰色。空もバラバラになっている。そのバラバラになった空から急に雪が舞い降りてきた。静かに・・だが、かなりたくさんの雪。ゆさぶられる大地と空気に対抗するように、雪も不規則に落ちてくる。落ちたと思うと、静かにまた舞い上がったりもする。今まで見たこともないような光景だ。地球が壊れはじめている。
大地に足をつけてはいられない。大地は雲のように動いているから、上に下に。
全力で農園の事務所へと走った。とにかく、事務所が心配だった。事務所には、女性スタッフが事務をとっている。事務所が崩壊したのではないか。事務所の脇には実家があり、年老いた両親もいる。これほど全力疾走をした事はない。畑から事務所まで200メートル。その間の事は覚えていない。
事務所に戻ると、女性スタッフのSが茫然と事務所の外に立ちすくんでいた。事務所は崩壊していなかった。「大丈夫だったか。建物からできるだけ離れろ!」私が叫んでも、Sの目はうつろだった。
あれだけの揺れでも、農園の被害はなかった。建物は倒れなかったし、地滑り、山崩れも結局起きなかった。でも、激震は次々と襲ってくる。
農園スタッフ7人は、全員、車で、福島市や二本松市内から通勤していた。みんな、心配でどうしていいか分からない。午後5時になり、「気をつけて帰宅するように」と私から言い、全員帰宅させた。
最初の地震と同時に村全体が停電となった。私は、エンジン発電機を持ち出し、動かし、出力部を事務所のコンセントに差し込んだ。そうすると事務所の電気が復活し、テレビを映し出す事ができた。
ヘリコプターから映し出される巨大な津波の映像。逃げ惑う車が次々と津波にのまれていく。
夜、6時、いわき市の妹家族が農園に逃れてきた。妹の夫は、いわき市の豊間という海に面した地区の中学校で教員をしていた。「豊間中学校は津波にのまれたみたい。夫も生徒とも連絡がとれない。原子力発電所も大変な事になっているみたい。なので、とりあえず、実家に逃げてきた。」とのこと。
原子力発電所の情報はなかなか入らない。しかし、福島第一原発は海のすぐそば。津波で大きな影響を受けた事は容易に考えられる。妹とその子供には、「ここは、原発から50キロも離れているので大丈夫。暖かくして、とりあえず、この事務所にいるように。」と言った。
夜、7時頃になると村の道路が騒々しくなってきた。普段は、夜になると人通りなどほとんどないのに、次々と東から車がやってくる。浜通りの浪江町や大熊町から逃げてくる人たちである。この時、原発の関係で避難命令が出ている事を知る。
眠れない夜だった。ラジオ福島からは、大和田アナウンサーが、必死になって「あちこちから助けて、との情報がスタジオに入ってくる。消防や警察にその情報を伝えているが、なかなか対応できない。ラジオを聞いている人、お近くの人、助けてあげてください。
現場で動けない人、がんばってください。今、助けに誰かいきますから・・・。なんで、こんな大きな地震を予知できなかったんだ。地震予知をやっていた学者はいったい何をしていたんだ・・・。」そんな悲痛な放送が続く。
3月12日朝。村の公民館は、浜通りから逃れてきた人々であふれかえっている。
村にある唯一のガソリンスタンドには長蛇の列。燃料が底をつくのも時間の問題だろう。
15時36分、福島第一原発1号機水素爆発。テレビの映像で空に向かって爆発する様子が映し出される。
スタッフは、農園を心配してこの日も出勤してきた。夕方、スタッフに向かって
「当分、自宅待機にします。ガソリン不足などライフラインが止まっているので大変だと思うが、みんな自宅で家族を守って欲しい。農園には、米も水も風呂もあるので、困ったら来て欲しい。再びみんなで農作業ができる事を望んでいる。」と言った。
帰り際、女性スタッフSが携帯メールを覗き込んでいた。そしてあわてて帰路へ。普段冷静な彼女のあんな慌てた姿を見たのは初めてであった。お腹をかかえて帰っていった。彼女は妊娠3ケ月であった。後で聞いた話であるが、携帯の一斉メールで「福島は放射能で危ない。大企業の社員は県外に避難し始めている。アメリカも福島は危ないと見ている。」
との内容であったとのこと。
スタッフみんなが帰り、農園事務所には妹家族だけが残された。豊間中学校の夫と生徒は、
学校の裏山に一晩避難していたところを無事発見された、という情報が入ってきた。
私は、事務所の窓にテープで目張りをした。少しでも放射能が部屋の中に入らないように。
そして、大きな福島県地図を壁に貼り、福島第一原発を赤く囲み、そこを中心に20キロ、30キロ、50キロの同心円を書き入れた。50キロの線は、二本松農園の中央部「公園」あたりを通っていた。
この第一原発事故直後、二本松農園周辺において、どのくらの空中放射能があったかについては、なかなか情報がつかめなかったが、2年後の2013年に二本松市から配られた資料によれば、2011年3月20日、農園近くの石井住民センターで、毎時5マイクロシーベルト。実に、年間許容線量の20倍である。
この時期、二本松農園では、春に出荷するハウスきゅうりの育苗を行っていた。
苗は、ハウスの中で、かわいい芽を出していた。しかし、まだ、寒いので、
夜は、通常電熱で暖をとっていたが、停電しているのでそれができない。
そこで、近所の家から大きな鍋をもらい、ハウスの脇でその鍋に薪でお湯をわかし、それをエンジンポンプで、苗の近くを通したビニールパイプに送ることにした。
そして、その準備ができた頃、電気が復活した。震災から5日目であった。
しかし、きゅうりの苗は寒さでかなり弱っていたため、思うように生育はしてくれなかった。
まだ、スタッフは一時帰宅のままであった。
3月17日頃だったと思う。一人で畑に出て、間引きなどの作業を行っていた。
しかし、放射能の影響で、この野菜も出荷できるかどうか分からない。
でも、私は、農業を専業としてやることで公務員を辞めた。
もうこれしかない。でも、放射能の影響で、もうこの地で農業を行う事はできなくなるのかもしれない。でも、これしかない。そんな事を思いながら、一人手入れをしていた。
畑から村を見渡した。昔から住んでいた村だ。ここで生まれ育った。
その何も変わらぬ風景が広がっている。でも・・・何か違う。
空間がゆがんでいる。何か他人行儀な風景だ。
夢の中に浮かんでいるようだ。
巨大な力が空間をねじまげている。
そんな事を感じていた。
(出荷停止)
3月20日頃、福島県産の露地野菜のほとんどが出荷停止となる。
恐れていた事が現実となってきた。
竹粉を使って、スタッフと一緒に植えた40アールのほうれん草も、すべて出荷停止となった。
かわいい芽を出し、10センチぐらいに育ち、あと1ケ月ぐらいで出荷できると思ったのに。
バックホーで、畑の脇に穴を掘り、ほうれん草を削ってその穴に入れた。
涙が流れた。いったいこの先どうなるのだろう。スタッフの給料も払えない。
今でこそ、東京電力からの損害賠償はスムーズに出るようになったが、この当時は、損害賠償請求の仕方も分からず、実際、請求しても支払まで半年くらいかかった。
ほうれん草を廃棄していた頃、東京のテレビのキー局の取材が入った。夜、9時55分から始まる視聴率の高い報道番組である。出荷停止で困っている福島県農家の取材、という事だった。記者、カメラマン、音声などの5人体制。私が、ほうれん草畑で、くやしい思いなどを説明していた。すると、カメラを回している、その後ろの音声係のスタッフが、取材に夢中になり、なんと、私とスタッフが栽培したホウレンソウを踏んづけていたのである。
私は激怒し、「なんで踏んづけているんだ。出荷停止になっても一生懸命育てたホウレンソウなんだ。それを踏んづけるなんて。おまえらは、ただ報道したいというだけで、福島県農家の事なんか何も考えていないんだろう。」
取材スタッフは土下座して謝っていた。空しかった。先の見えない苦しさだった。
(奇跡)
電気は復活したものの、ガソリン不足で農作業はできず、スタッフも自宅待機のままだったため、私は、事務所で何をしようかなあ、と考えていた。
しばらく考えて思いついた。「そうだ、今起きていることをインターネットのブログで発信しよう!」この村出身で東京に移り住んだ人は、村の様子が気になっているはず。その人たちに村の様子を伝えたい。そんなちょっとした思いであった。
激しい揺れだったが、村で建物崩壊はなかったようだ。浜通りから浪江や大熊の人たちがたくさん避難してきている。ガソリン不足は先が見えない。農産物は出荷停止になってきた。
などなど。
そうすると、ブログを上げはじめてから約1週間。震災前は1日20件ぐらいしかなかった二本松農園のホームページへのアクセスは、なんと・・・1日2000件にもなっていた。すごい反響である。
この頃から、出荷停止になっていないものまで、福島県産農産物が売れない状況、いわゆる「風評被害」が出てきた。震災前に収穫した米や野菜、あるいは、放射能の影響のないハウス栽培の野菜までも売れなくなっていた。
私のブログを読んだ人から、次のようなメールやブログへの書き込みが寄せられるようになった。
「福島県の農産物を買って応援したいが、近くのスーパーに並ばなくなってしまった。二本松農園のネットショップに載せてもらえないか。」
なるほど、と思い、さっそくネットショップに載せてみることにした。
3月30日の午後、二本松農園にあった、2010年秋産の米5キロを20袋程度、ネットショップに載せてみると、約30分で完売となった。すごい売れである。
米以外に農園で出せるものはなかったので、隣村のハウスきゅうりを栽培している農家を訪ねた。私が「きゅうりは売れていますか?うちのネットショップに上げたら、全国からたくさんの応援買いが入っています。よろしければ、ネットにきゅうりを載せませんか?」するときゅうり農家のMさんは、「普通だと5キロ箱で1500円ぐらいにならないと採算がとれないのに、現在、700円以下になり、それでも、買い手がなく、農協への出荷も止まっている。ぜひ、売って欲しい。」とのこと。そこで、すぐに1500円の売価でネットに載せると、どんどん売れていく。
次に、40年以上有機農業を行っているOさんを訪ねると、「関西を中心に数百人にセット野菜を販売していたが、6割くらいの人からキャンセルが入ってしまった。人参や長いも、そして米があるので販売して欲しい。」との事。これもさっそくネットに載せると、いくら載せても売れてしまう。
それからは、二本松農園の事務所は、ネットショップの注文を受けるコールセンターのようになってしまった。一晩のうちに200件を超える注文が入り、朝8時にそれを出力、該当する農家に注文FAXを発送するとともに、7人のスタッフみんなで、宅配伝票を書きまくり、午後には、該当する農家から集荷してきた野菜類を梱包したり、発送作業を行う。夕方5時には、宅配業者のトラックに満載になって、全国に野菜類が発送されていく。電話でも注文が次々と入る。「神戸の建設業者です。阪神淡路大震災を経験しているので、大変さが痛いほど分かる。すぐに100万円分の野菜を買うので送って欲しい。」
「福島県の本宮出身で、現在名古屋で福祉施設をたくさん経営している。福島県を助けたいので、各施設にきゅうりを箱でたくさん送って欲しい。」「大阪の行政書士会である。総会があるので、会場で福島県産のきゅうりを配りたい。20箱を至急送って欲しい。」「ニュージーランドに住んでいる。福岡市の実家の両親に野菜をたくさん送って欲しい。」というようなあらゆる注文。はては「出荷停止なんて何を考えているのか。これでは福島県の農家が死んでしまう。私は放射能なんて怖くないので、ぜひ、出荷停止になっているほうれん草を送って欲しい。食べても大丈夫、という事を証明したい。」これには、「気持ちはありがたいが、出荷停止になっている野菜を送る事は絶対できない。」ともちろんお断りした。コンピュータが壊れるのではないかと思うほど注文が入り続ける。電話注文も鳴りっぱなしである。
私は「全国には、風評被害のように、福島県産農産物を食べない人が多いが、逆に食べて応援したいと思う人も、又多い。」応援してくれる人と福島県農家を直接結びつけて、農産物を送り続ければ、風評被害を乗り切る事ができる!インターネットは、そのツールとして非常に有効な手段である。」と思った。
この状況を聞きつけ、あらゆるマスコミの取材が入ってくる。NHKニュースでは、「風評被害をネットショップで乗り切っている農家がいる。」ということで、7分程度の県内ニュースを何回も流し続け、何日か後には、「おはよう日本」の一番視聴率の高い、朝7時すぎ頃放映、その後世界放送へ。大阪にあるYテレビでは「福島県の野菜がネットショップで買えまっせ。」という感じで放映。この時は、注文が殺到し20分間ですべての商品が在庫切れ。売上が20分間で200万円にも達した。農園には、同じ時間に数社のテレビ取材がダブって入る事もあった。
マスコミに取り上げられると、このようなメールも入り始める。「九州に住んでいる。ネットで福島県新地町のKさんというニラ農家が困っているようだ。何とか助ける事はできないか。」。すぐにそのニラ農家に電話すると、「津波が、ニラハウスの近くまできたが、幸いハウスへの直撃は避ける事ができた。しかし、浜通りということで、放射能のイメージがつきまとい、売れない。」とのこと、すぐにネットで紹介すると、またまた、爆発的に売れまくる。
4月のある朝には、こんな事もあった。
あまりにも忙しいので、私は、事務所で仮眠状態で過ごしていたが、朝起きると、事務所の玄関に見知らぬ女性がうずくまっていた。私が「どうしましたか?」と尋ねると、その女性は「風評被害で観光客も来なくなってしまった。観光客向けに ゆべし を販売していたが、それが売れず困っている。このままではパート従業員を解雇するしかない。何とか助けて欲しい、」と。聞けば、その女性は二本松農園から100キロメートルも離れた、新潟県境近い只見町から来たとのこと。朝5時頃出発してきた事になる。「事前に電話くださればいいのに。」と私が言うと、その女性は「私は ゆべし を作っているので農家ではありません。電話して、二本松農園さんに、農家でないのでダメ、と言われたら大変なので、わざと、電話しないで来ました。」私は、「ゆべしだって、餅米を使っているでしょう。なので、農業と関係ありますよ。観光関係も風評被害で大変なんですから、私ができる事があれば、何でもやりますよ。」というとその女性は安心したようになった。5月に、二本松農園のネットショップに参加している農家で、任意団体の「がんばろう福島、農業者等の会」を立ち上げたが、名前に「等」が入ったのは、このような理由からである。
その女性を事務所に招き入れた。私が「何か商品はお持ちになりましたか?」と尋ねると、
商品である ゆべしや味みそなどを出して見せた。さっそく、ネットショップに載せるセットを二人で組み始める。ゆべし3本と味みそを組み合わせ、送料も含めて4500円のセットがすぐに完成した。写真を撮り、私はパソコンに向かい、すぐにブログで今の様子を発信し始める。
先ほど100キロも離れた所から女性が農園に訪ねてきたこと。風評被害は観光にも及び ゆべし が売れなくなっていること。このままではパートを解雇するしかないこと。なので、まもなくネットショップにこれらの商品をセットにしたものを上げるので、ぜひ、全国の皆様応援して欲しい。というような内容。ブログを発信してから約30分後ネットショップに4500円のセット商品を上げると、買いが殺到、30分ぐらいで4500円の商品が20セットも売れた。私が「セットが20売れましたよ。30分でトータル10万円近く売れました。このペースでいけば、パートの方を解雇しなくても大丈夫かもしれませんね。」と言うと、その女性は、目を丸くし「こんな事が世の中にはあるんですね。」と。
女性は、安心して100キロの道のりを帰って行った。
こんな事もあった。南相馬市にある障がい者施設から電話が入った。「原発周辺から多数の障がい者が、うちの施設に避難してきた。定員の何倍もの障がい者であふれている。食糧費等を稼がなくてはならないが、震災前、南相馬市の道の駅に、施設で作った豆腐や豆乳を出していたが、今は、南相馬市から多数の住民が避難してしまったほか、観光客もまったく来なくなってしまったので、豆腐や豆乳が売れなくなってしまっている。助けて欲しい。」とのこと。私は「すぐにやりましょう。農園に来るのは大変だと思うので、すぐに、みんなで相談して、豆腐と豆乳のセットを組み、その写真をメールで送ってください。ネットで販売してみましょう。」。
数時間後、写真が送られてくる。私は、例によってブログで、南相馬市の障がい者施設が大変な事になっている事を発信し、その後、豆腐と豆乳のセットをネットに載せる。すると、いつものように全国から多数の買い。
この施設の方とは、その後、東京へ直接販売に行く時に一緒に販売するようになった。
(被災地支援野菜)
被災地を支援したいという思いは、さらに画期的なシステムも生み出した。
ある女性は、二本松農園のネットショップで、たくさんのきゅうりを買い付け、石巻や気仙沼の津波被災地に送っていた。その女性からある日メールが入った。「今まで、自費で二本松農園のきゅうりをネットで買い、三陸の津波被災地に送っていましたが、実は、その費用は少ない給料からねん出していました。このまま続けていると、私自身生活ができなくなってしまいそうです。そこで相談なのですが、二本松農園のネットショップで募金を募り、それを原資に、津波被災地に野菜を送ってもらえませんでしょうか。」との内容。私たちは、ハッと気が付き、そうだ!この方法なら、継続的に津波被災地に野菜を送る事ができ、支援を受けた人だけでなく、福島県農家も助かる。それに、募金した人も、自分の行った募金が、どのように使われ、誰が助かったか分かり、募金のしがいもある。「すぐにやろう!」ということで、3時間後には、ネットショップに「被災地支援募金」をUPした。
震災後、良くメールで「公共的な募金を随分行ってきたが、自分の行った募金がどのように使われているのか分からず、残念な思いをしている。」との内容を目にしていた。被災地支援野菜の方法なら、この不満を解決できる、と直感的に思ったのである。被災地支援募金では、一口500円で好きな口数を募金でき、5万円に達した時点で、福島県の野菜を被災地に送り、その結果を、募金してくれた人にメールでお知らせした。この方法も爆発的な支持を得、ある時は、ネットショップにUPすると30分で、5万円が満額になった事もあった。
震災後、私がいつも持っていた1枚の写真がある。それは、小さな子供が、被災地支援で送られた二本松農園のきゅうりをおいしそうに食べている写真である。子供の母親からメールが入ったものである。「宮城県亘理町の者です。いつも被災地支援できゅうりをお送りいただきありがとうございます。実は、夫は津波で亡くなりました。幼い男の子二人と私が残されましたが、生活が苦しく食料を買うこともままなりません。そんな時、二本松農園のきゅうりが送られて来ました。全国の皆様からの募金によるものだという事も知りました。とてもありがたく、何とかお礼を申し上げたくて、携帯で写真を撮りましたので送らせていただきます。」
との内容。その写真を見た時、農園のスタッフと私は涙が止まらなかった。小さな男の子が、きゅうりを握りしめながら、母親を見ている写真。この一枚の写真には、津波被災地の大変な現状、子供の手に握られているのは風評被害に苦しむ福島県野菜、野菜を子供に届けているのは全国の方々の被災地に思いを寄せる心・・・この三つが凝縮されているのである。
なので、この写真は私の宝物となった。東京に初めて福島県の野菜を車で販売に行く時も
この写真を持っていた。この写真を見ると、みんなの心をつないで震災を乗り切っていく、という勇気が湧いてくるからである。
この被災地支援野菜(募金)は、今も二本松農園のネットショップで続けられている。
このような、ネットショップにおける爆発的な応援買いは、2011年4月中、約5000件、総売り上げ2000万円にもなった。震災前、1年間の売上が10万円程度であったから、実に1ケ月でその200倍もの売り上げになった事になる。
しかし、5月の連休を過ぎると、その売上は急激に減少していく、一部の継続的なリピーターを除き、応援買いは長続きしない面があるからである。
【第3話に続く】
- 2019/01/12(土) 18:14:42|
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2014年に発刊したこの本ですが、このたび、二本松農園代表齊藤登のブログで連載させていただくことにしました。2011年に発生した東日本大震災により、福島県農業は、放射能対策や風評被害で大きな影響を受けましたが、
実際、福島県の農業現場で、どのような事が起きていたのかは、なかなかまとまったものがありません。
この本は、福島第一原発から50km、二本松.農園がこれらにどのように取り組んできたかを農業者の立場から
ありのままに書いています。
これをご覧いただくと、福島県農業はもとより、広く消費者と農業者との関係、日本の農業の未来も見えてくるような気がします
。ぜひ続けてご覧ください。2019年1月10日から連載開始です。
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第1話
(さよなら、サラリーマン生活)
震災の1年前の、2010年3月31日、私は、福島県いわき市、ある県立高校の校門の前にいた。振り向けば、3階建の鉄筋コンクリート製の校舎がまぶしく青空に光っている。
日本でも有数の広い市域を持ついわき市。「東北の湘南」とも言われるように、いわき市は、気候が温暖で雪はほとんど降らない。映画フラガールの舞台としても有名な「スパリゾートハワイアンズ」があるように、南国の雰囲気さえある。この校舎は、そんないわき市の
中心部、巨大な新興住宅地のてっぺんにそそり立っていた。校舎は3階建で屋上には、大きな太陽光発電設備があり、その屋上からは、太平洋も見渡すことができた。よく、見回りがてら、その屋上に行き、海を見ていたものである。
私が、この高校に赴任したのは、わずかその1年前、事務長としてである。学校は、校長・教頭が頭に浮かぶが、事務長はあまりイメージできない。そのとおり、仕事と言えば、授業料の徴収責任、PTAの窓口、先生の給料の事務的管理など限られている。窓際的管理職なのである。
私は、昭和53年に福島県職員になった。それから32年。県警本部の事務。事務と言っても、麻薬・覚せい剤の取り締まり補助、その後、県行政に戻り、土木、企画調整。企画調整では、県の長期総合計画、観光といわゆる現場と企画畑で生きてきた。どの部署もそれなりに変化があって楽しかったし、自分の考えの実現もある程度できた。しかし、県立高校の事務長は、ちょっと違って、完全に管理職。そこには、新しい事を計画して実行するような余地はなかった。
併せて妻子を福島市に残しての単身赴任。高校に赴任して1ケ月で「この仕事、自分にとって3年はもたんな。」と思うようになった。もともと50才になったら、県職員を辞めて新しい仕事に・・と思ってはいたので。赴任して7ケ月目の11月、校長に「私は、この仕事に合わないと思うようになりました。50才になったら新しい世界に、とも思っていたので・・・来年の3月をもって退職したいと思うのですが。」と告げた。校長いわく「その方がいいかも知れませんね。齊藤さんを見ていると、もっと企画的というか、現場的というか、
民間的というか、そのような世界がいいのかなあ、と思います。実は、私も本当は校長など辞めたいと思う事があるのですが、現実的に難しいものです。そのように、新しい世界に向かっていける齊藤さんがうらやましいと思います。」と、あっさり承諾。校長と教頭とは、毎月3役会議と称して、酒飲みをして、本音で語り合っていた。校長も教頭も実は人の子。
彼らにとってストレスのたまる場でもあったのである。しかし、そんな事を心をわって話す事のできる校長・教頭が、私は心から好きだった。だから、私が、退職したいと言っても、
自分の気持ちと照らし合わせ、OKと言ってくれたのだと思う。
それから4ケ月。今日退職を迎え、校舎を後にした。もうこの場所に戻る事はない。32年間の県職員生活に戻る事もない。しかし、さみしさはなかった。明日から始まる「農業」という世界に希望があったからである。車のバックミラーに遠ざかる校舎。まさか・・・それから1年後、震災でこの校舎に避難してきた高齢者が多数死亡するような事が起きるとはその時思いもよらなかった。
(農業1年目)
いわき市の県立高校を後にして2時間後、私は福島県二本松市の東部、阿武隈山系の山の中にある二本松農園に到着した。ここは、私が50年前に生まれた地。もともと農業を主として生計をたてていたが、規模は、畑1ヘクタール、水田2ヘクタール程度でそんなに大きい農家ではなかった。私が専業として農業を行うためには、もう少し規模が必要ということで、4ケ月程前から、隣接する耕作放棄地を借り受け、開墾を行うともに、水田も借りて、この時点で畑が約2ヘクタール、水田が4ヘクタール程度になっていた。
今日は、3月31日、農園の主たる作物である夏の露地きゅうりの栽培のためには、もう畑づくりを始めなければならない。農園に着くと、牛の堆肥を積んだダンプカーが畑にいた。堆肥を畑に下し、帰ろうとしたところ、坂でダンプカーが動かなくなってしまった。農園のバックホーを持ち出し、ダンプカーの尻を押したり、道を削ったりしてようやく脱出。これを背広を着たまま行ったため、体からはぷ~んと牛堆肥の臭い。その夜、福島市内で昔の職場の仲間が懇親会を催してくれたが、みんなから「なんか、もう農業の臭いがするな。」と笑い。
楽しく、希望に満ちた出発だった。
露地きゅうりは、7月下旬から収穫になる。そのためには、さかのぼって、2ケ月前の6月上旬に苗の定植(畑に苗を植えること)。その2ケ月前の4月には、畑づくりを行う。できるだけ、農薬や化学肥料は使いたくないので、山の木の葉で作った堆肥や、近くの畜産農家から出る牛堆肥を畑づくりの基本とした。きゅうりの場合、きゅうりをからませる金属製の「支柱」も畑に設置する必要がある。支柱の間隔は2mで、この年、露地きゅうりを1ヘクタールも栽培したので、支柱の延長も相当のものである。支柱を立てると、次は、それを針金で固定し、網をかける。きゅうりは、どんどん成長してくるので、これらの作業も急がなくてはならない。
ひとくちに1ヘクタールというが、きゅうりとしては相当の面積である。きゅうりは、どんどん成長する植物なので、実をつけはじめると1日朝夕2回収穫する必要がある。それを畑から作業所に運び、1本1本サイズごとに選別し、その日の11時には、農協の集荷所に箱づめにしたものを持ち込まなくてはならない。かなり、手間のかかる作業なので、普通の農家だと20アールから、せいぜいやっても50アールが限界である。それを無謀にもその倍の1ヘクタールも栽培した。
スタッフがいるから大丈夫だろう、という私の考えからだったが、そんな生優しいものではないということは後になって分かった。
きゅうりと並行して、水田の作業もある。この年4ヘクタールの水稲を栽培した。水田に牛堆肥を入れ、トラクターで耕し、水を入れ、代掻き(しろかき)をして、田植えにこぎつける。田植えまで様々な作業を伴うため、こちらも時間との戦いである。
7月上旬、いよいよきゅうりの実がつきはじめた。順調である。いちばん最初にきゅうりを定植した畑は、近所の農家が長い間、野菜畑として使用していたところなので、きゅうりも順調に育っていった。朝6時から1回目の収穫を行い、それを作業所に運び、1本1本、サイズ A・B・C・S・AS・AL・L・規格外というように選別し、それを5キロ入りの箱に入れていく。7月中旬には、この箱が1日100箱程度出るようになった。午前11時には、この箱をトラックに積み、近くの農協の集積所まで持ち込む。そこにトラックがやってきて、他の農家のものも積み込み、二本松インター近くの積み替え場所で、再積み替えを行い、夕方には、東京の大田市場か、大阪・名古屋に向けて「きゅうり」が出発する。
夏場の福島県産きゅうりはブランドになっている。暑さで、九州や埼玉産がとれなくなるので、ちょうどきゅうりの需要が最も高まる8月、福島県産がほぼ独断場となる。価格は、5キロの箱で、採算ベースがA級で1200円程度、安いときは1000円を切ることもあるが、逆に2500円になることもある。きゅうりは、このように価格差が激しいので、農家の間では「博打」と呼ぶ人もいる。
この年、きゅうりの相場は、お盆前までは、1200円程度で推移し、お盆過ぎから、2500円以上をつけるような高値になっていた。味の面でも福島県産露地きゅうりは抜群である。気候がきゅうりに合うということであろうか。
しかし、この年、8月になって、大変な事になってきた。雨が降らないのである。きゅうりは、水のかたまり。これが不足すると生育に大きく影響を与えていく。だからといって、通常、露地きゅうりの畑にパイプを引いて水を与えるような事はしない。きゅうりが水を求めて、どんどん地中に根を張っていくようにする。これにより、がっちりとした木になり、それがきゅうりの味や形も良くすることになるからだ。なので、畑は、できるだけ土を柔らかく、根が張りやすいように、堆肥や木の葉、稲わらなどを畑に入れて、ふわふわの土にしていく。よっぽどの日照りにならなければ、30センチぐらい地中に入れば、水分があるからである。
しかし、この年は違った。雨が異常に降らないのである。6月の梅雨の時期は雨が多かったが、梅雨が明けて、7月の10日頃から8月中旬までまったく雨が降らなかった。日ざしも非常に強い。地球温暖化の影響だと思われる。こうなると、さすがに、畑に水をまく必要がある。しかし、農園のきゅうり畑は1ヘクタールもある。水を入れるといっても、設備自体から準備する必要がある。きゅうり畑の近くには、水田用の疎水が通っている。直径1メートル以上の巨大なパイプで阿武隈川の水を引いている。「この水を使えれば・・」と通常思うが、これは水田用として整備されているので、絶対、それを目的外の畑に使用することはできないのである。なんという縦割り。同じ農産物なのに、水稲用の水は、野菜には使ってはいけないなんて。関係機関に聞けば「疎水は水田用の予算でつくっているので、目的外使用は絶対ダメ。」とのこと。唖然とした。しかたがないので、農園内に古い井戸があったので、その水を使用したが、広いきゅうり畑では、20分も水をまくとなくなってしまった。下の川から揚げようとしたが、畑までは、20メートルほど落差があるため、ポンプではなかなか揚がらない。そのため、急きょ途中に池をつくり、いったんそこまで川の水をあげ、そこから2段目のポンプで畑まで揚げることにした。しかし、広いきゅうり畑、ポンプで揚げた水の量では焼け石に水である。強い太陽の光で、大切なきゅうりの木がどんどん弱っていくのがわかる。身を削られる思いであった。少しでも助けたと思い、夜中、ビニールパイプを抱えて、畑をはうようにして少ない水を引いた。涙がこぼれた。
8月7日頃から、きゅうりの木は目に見えて弱っていった。実もあまりつけなくなった。
形も曲がっていく。
こうなると、市場ではきゅうりが少なくなるので、どんどん値段があがっていく。この頃から5キロ1箱で2500円以上となっていく。しかし、肝心のきゅうりがならない。
お盆には、雇っていたパート従業員7人に「ゆっくりお盆休みをとって欲しい。」旨告げたが、その後、復帰するまでにはいかなかった。
9月11日、この年、最後の露地きゅうりの収穫を終えた。通常であれば、10月中旬まで収穫しなければ採算がとれないところであるが・・・、日照りでまったく木が弱り、病気も蔓延したのでしかたない。エンジン除草機で切り倒していった。
7人の農園スタッフも心配顔であった。二本松農園はきゅうりで経営しているのに、大丈夫なのか・・・。スタッフに「みんなは一生懸命やってくれたのに、私の技術不足で申し訳ない。来年に向けて、しっかりとした土づくりをしよう!」と言った。
あまり知られていないことだが、大規模に野菜づくりをするためには、相当の資金がかかる。きゅうりも1ヘクタールも栽培するとなると、支柱が数千本、張り巡らす針金、ネット、苗、きゅうり専用の化学肥料、消毒、消毒のための機械などなど。1千万円以上の収穫を見込み、初期投資ということで、それ以上にお金をかけたが、実際は、収穫が予定の3分の1以下だったため、かなりの赤字である。7人のスタッフの給料も毎月払わなければならないので、県職員の退職金は、秋には底をつきはじめる。「どうやって、来年のきゅうりの時期までつないでいったらいいのだろう。」そんな思いがめぐる。
秋、稲刈りを終えた。予定よりは、収穫量は少なかったが、貴重な現金収入としてありがたかった。年末には、個別所得補償などの補助金も出るため、これらにより、何とか春までつなぐことにした。
(農業経営・ネットショップ)
農業の経営がそんなに甘いものでないことは覚悟していた。小さい頃から父と母の苦労を見ていたからである。二本松農園のある福島県阿武隈山系は、昔、養蚕が盛んな地域であった。しかし、安い中国産が入ってきたことにより、昭和40年代の後半からは、養蚕は急激に衰退していく。たばこ栽培もダメ、野菜・米・牛の飼育もしていたが、これでも食べていけず、父は大工をはじめ、母は、農作業のあいまに、家政婦もしていた。養豚は高値の時には良くて、父はよく「子供の大学は豚で出したようなものだ。」と言っていた。しかし、それも長続きはしなかった。子供の教育が終わると、父と母は、「なす」と「きゅうり」を栽培するようになった。きゅうりの栽培は大変であるが、1年を通すと、他の野菜よりは単価が高いために、なんとかやっていけたようである。
そんな、両親の苦労を見て育ち、せっかく、県庁職員になったのに、なぜ、それを辞めて、苦労の多い農業をやるのか?よく人に聞かれる事である。なぜなのだろう・・。自分でも正直分からない部分がある。でも、50歳からは「自分で判断できる、自分で決めることのできる、自分のしたい仕事」をしたかった。なので、仕事は実は、農業に限定するものではなかった。「独立して、自分にできることが何かあるか?」と考えたが、見つからなかった。そのうち「そうだ、農業だったらできるのではないか。小さい頃から両親と農業をやっていたし、畑と水田をもっている、というのは自分の武器ではないか」と
思うようになった。「農業は大変と誰もが言うが、それは、従来のやり方でやっているからで、六次化やIT等を組み合わせれば、自分なりの、新しい農業ができるのではないか。」
「大変な世界だからこそチャレンジしてみたい。」こうなると夢と希望で満ち溢れ、すぐに実践してみたくなるのが私の性格である。あえて、苦労をしてみたい、というのも、また私の癖、なのである。
なので、農業1年目も、「人が難しいという事を、とりあえず全部やってみよう」と思った。どれくらいダメなのか、経験してみないと分からない。経験してみたい。このため、無謀とも言えるきゅうり1ヘクタール栽培、これで、農業経営をしてくのは難しいと言われる農協への出荷。併せて、ネットショップによる野菜の販売。などなど。
1ヘクタールのきゅうり栽培は、1年目は日照りも重なり失敗となった。退職金もかなり失った。農協へ出荷してみて分かった事は、「農協への出荷は価格が安定しないため、これで経営計画を立てる事は難しい。」という事である。価格が2~3倍も変動していくようではとてもそれで経営を成り立たせていくことはできない。また、農協出荷は、どんなに作物に「こだわり」を持って栽培しても、すべて、形や大きさで決まるため(共同出荷)、付加価値がでない。これでは、やりがいがない。という事も分かった。ただし、農協出荷の良い点もある。それは、よっぽどの不良品でない限り、全て買い取ってくれるということである。野菜は毎日生産されるので、これをすべて販売するということは農家にとってとても大切な事になる。せっかく作ったのに無駄にしたくない。なので、全量買い取りをしてくれる農協はありがたいのである。ベテランの農家や果樹農家などは、お得意様に直接販売し、残ったものを夕方農協に出荷する、という事が多い。
ITを使った農業については、私自身懐疑的であった。「野菜を、高い宅配料を払って買う人は少ないはず。米だとニーズはあるだろうが。」と思っていた。実はこのとおりで、農業をはじめた2010年6月に、二本松農園にネットショップを開設したが、それから震災の起きるまでの10ケ月間の販売は、年間トータル10万円程度で、決して売れたというレベルではなかった。しかし、ネットショップやホームページを持っていると、農園の知名度があがり、農園を訪れる人は増える。このような事が1年の農業経験で分かった事である。
(震災前の冬)
夏のきゅうり栽培は、さんざんな目にあったので、この冬は原点に返り、徹底した「土づくり」を行う事にした。
近所の山から木の葉を集め、トラックで農園に運び牛堆肥と混合して農園独自の有機肥料をつくる。荒れた水田や空地には大量の草が生えているので、それを刈り取り、これも農園に運び、バックホーで畑に穴を掘り、そこに、刈り取った草を大量に入れ、覆土していく。
このようにすることにより、地中が柔らかくなり、きゅうりの根が張りやすくなるため、結果として夏の日照りにも強くなる。
「竹粉」にも注目した。
二本松農園のある鈴石地区(村)も高齢化が進み耕作放棄地が広がってきている。耕作を放棄した畑には、2年もすぎると竹が入り込んでくる。私は、この耕作放棄地解消にも取り組みたいと思ったので、2009年の冬から家族とともに、耕作放棄地の開墾を行っていた。うっそうとした竹林の竹を一本一本のこぎりで切り倒し、根は、バックホーで掘り起こしていく。気の遠くなるような手間のかかる作業である。
2010年の冬も、この竹林の開墾作業に取り組んでいた。ある日スタッフが「竹を粉状にして畑に入れましょう。そうすれば、畑がふわふわになって根が張りやすくなるほか、竹の養分で畑が肥える。」
竹パウダーを作る機械を持っている人を聞きあたり、竹粉を大量に購入、これを使って、冬から春にかけて、「ほうれん草」を栽培することにした。耕した畑に竹粉を筋状にまき、そこに、ほうれん草の種を撒いていった。寒い冬でも竹粉のところは暖かいので、竹の養分も手伝って芽が出るはず・・・と思った。面積は40アール。一口に40アールと言っても、面積的には10メートル×400メートルであり、相当の面積である。
このような有機的な方法で野菜づくりにチャレンジするのは、すこぶる楽しい。はたして芽が出るだろうか、大きく育つだろうか、味は・・・。考えるとわくわくする。スタッフも同じ思いだった。
よく、「有機栽培」とか「有機農業」などと、有機栽培が特別の行為のように言われるが、二本松農園にとっては、「有機」は別に特別な事ではなく、近所の山にある木の葉を使うし、
草はすき込むし、竹も粉にして使いたいと思う。私は、有機農家と慣行農家(有機農法以外の農家で昔ながらの化学肥料等を使った農業)を区別して論じるのがあまり好きでない。慣行農家という言い方も、なんか、工夫なく農業をやっているようで差別的である。慣行農家であっても、できる限り、農薬や化学肥料は使いたくないと思っているし、自然のものを使ってやろうとしている。作物に対する思いは、有機農家であろうと慣行農家であろうと同じだと思う。二本松農園では、できる限り農園の近くにある有機資材を使って栽培しているが、
でも、すべてそうはいかない面もある。たとえば、きゅうり栽培をしていると、ベトやウドンコと呼ばれる病気が蔓延することがある。早い時には、3日ぐらいで畑全体に広がり、収穫がおぼつかなくなる。なので、そうならないように、定期的に消毒で病気を予防する。しかし、その回数をできるだけ減らすために、しっかりとした土づくり、苗づくりに努力していく。化学肥料もあまり使いたくないが、病気になりにくく、収穫量をあげるためには、
「きゅうり専用」と呼ばれるような化学肥料を少し使う。それで危険性があるようなレベルではなく、基準の3分の1以下程度にしている。化学肥料と有機的な肥料とを組み合わせ野菜づくりを行うと、多様な栽培方法として、おいしいきゅうりづくりにもつながっていく。
竹粉を使った、初めてのほうれん草栽培。ワクワクして芽が出るのを待っていたが、なかなか芽が出てこなかったが、2月下旬になって、ようやくかわいい芽が出はじめた。
スタッフみんなで、「芽が出てきたよ」と言って喜んだ。畑周りの雪も融けはじめ、春の息吹が少しずつ感じられる頃であった。しかし。それから2週間後、激震が二本松農園を襲う。
【第2話に続く】
- 2019/01/10(木) 09:34:29|
- 二本松農園の1000日
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