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がんばります福島県農業!二本松農園ブログ

全国の皆様の応援をいただきながら風評被害と戦っています。~「助けたい」が経済を支えようとしています。~

連載「二本松農園の1000日」【第2話】

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2014年に発刊したこの本ですが、このたび、二本松農園代表齊藤登のブログで連載させていただくことにしました。2011年に発生した東日本大震災により、福島県農業は、放射能対策や風評被害で大きな影響を受けましたが、
実際、福島県の農業現場で、どのような事が起きていたのかは、なかなかまとまったものがありません。
この本は、福島第一原発から50km、二本松.農園がこれらにどのように取り組んできたかを農業者の立場から
ありのままに書いています。
これをご覧いただくと、福島県農業はもとより、広く消費者と農業者との関係、日本の農業の未来も見えてくるような気がします
。ぜひ続けてご覧ください。2019年1月10日から連載開始です。


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福島県内54の農家で直接運営 
里山ガーデンファーム
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第1話

第2話

(東日本大震災)
2011年3月11日、二本松農園では、春野菜の種撒きのため、「公園南」と呼んでいる畑でスタッフみんなで、小型耕運機を使い、畑を耕していた。
二本松農園は、里山の傾斜地にあるため、わりと小さい畑が集まったものとなっている。畑の数が多いことから、スタッフとの打ち合わせを行う時、畑に名前をつけておかないと、なかなか打ち合わせ内容が伝わらないので、個性的な名前をつけている。農園の中央部には、「公園」と呼んでいる高台があり、そこには、立派な「ソメイヨシノ」の桜が2本あり、村に広がる水田や畑が一望できる。この日の作業は、この公園の南側にある畑、なので「公園南」なのである。
14時46分、耕運機を運転していた私は、最初「めまい」がしたのかと思った。
なにか、自分の体がフワフワ浮き出しそうな。耕運機から視線を上にあげると、畑が波打って動いている。高台の公園に目を移すと、公園自体がゆっさゆっさと揺すぶられている。山が大きく揺れる様子もはっきり見れる。「山が崩れてくる。」と思った。耕運機を止め、
スタッフとともに、しばらく畑にしゃがみ込む。5分くらい過ぎると地震はいったん止まったように感じたが、また、立っていられないような激震が襲ってくる。畑は横に動いている。山は、その調子とは別に横に揺さぶられている。空気は・・・地面や山とはまた別に動いている。地形と自然がみんなバラバラに動き出しているように感じる。
空が、急に暗くなったように感じた。いや、向こうの空は明るい灰色。空もバラバラになっている。そのバラバラになった空から急に雪が舞い降りてきた。静かに・・だが、かなりたくさんの雪。ゆさぶられる大地と空気に対抗するように、雪も不規則に落ちてくる。落ちたと思うと、静かにまた舞い上がったりもする。今まで見たこともないような光景だ。地球が壊れはじめている。
大地に足をつけてはいられない。大地は雲のように動いているから、上に下に。
全力で農園の事務所へと走った。とにかく、事務所が心配だった。事務所には、女性スタッフが事務をとっている。事務所が崩壊したのではないか。事務所の脇には実家があり、年老いた両親もいる。これほど全力疾走をした事はない。畑から事務所まで200メートル。その間の事は覚えていない。
事務所に戻ると、女性スタッフのSが茫然と事務所の外に立ちすくんでいた。事務所は崩壊していなかった。「大丈夫だったか。建物からできるだけ離れろ!」私が叫んでも、Sの目はうつろだった。
あれだけの揺れでも、農園の被害はなかった。建物は倒れなかったし、地滑り、山崩れも結局起きなかった。でも、激震は次々と襲ってくる。
農園スタッフ7人は、全員、車で、福島市や二本松市内から通勤していた。みんな、心配でどうしていいか分からない。午後5時になり、「気をつけて帰宅するように」と私から言い、全員帰宅させた。
最初の地震と同時に村全体が停電となった。私は、エンジン発電機を持ち出し、動かし、出力部を事務所のコンセントに差し込んだ。そうすると事務所の電気が復活し、テレビを映し出す事ができた。
ヘリコプターから映し出される巨大な津波の映像。逃げ惑う車が次々と津波にのまれていく。
夜、6時、いわき市の妹家族が農園に逃れてきた。妹の夫は、いわき市の豊間という海に面した地区の中学校で教員をしていた。「豊間中学校は津波にのまれたみたい。夫も生徒とも連絡がとれない。原子力発電所も大変な事になっているみたい。なので、とりあえず、実家に逃げてきた。」とのこと。
原子力発電所の情報はなかなか入らない。しかし、福島第一原発は海のすぐそば。津波で大きな影響を受けた事は容易に考えられる。妹とその子供には、「ここは、原発から50キロも離れているので大丈夫。暖かくして、とりあえず、この事務所にいるように。」と言った。
夜、7時頃になると村の道路が騒々しくなってきた。普段は、夜になると人通りなどほとんどないのに、次々と東から車がやってくる。浜通りの浪江町や大熊町から逃げてくる人たちである。この時、原発の関係で避難命令が出ている事を知る。
眠れない夜だった。ラジオ福島からは、大和田アナウンサーが、必死になって「あちこちから助けて、との情報がスタジオに入ってくる。消防や警察にその情報を伝えているが、なかなか対応できない。ラジオを聞いている人、お近くの人、助けてあげてください。
現場で動けない人、がんばってください。今、助けに誰かいきますから・・・。なんで、こんな大きな地震を予知できなかったんだ。地震予知をやっていた学者はいったい何をしていたんだ・・・。」そんな悲痛な放送が続く。
3月12日朝。村の公民館は、浜通りから逃れてきた人々であふれかえっている。
村にある唯一のガソリンスタンドには長蛇の列。燃料が底をつくのも時間の問題だろう。
15時36分、福島第一原発1号機水素爆発。テレビの映像で空に向かって爆発する様子が映し出される。
スタッフは、農園を心配してこの日も出勤してきた。夕方、スタッフに向かって
「当分、自宅待機にします。ガソリン不足などライフラインが止まっているので大変だと思うが、みんな自宅で家族を守って欲しい。農園には、米も水も風呂もあるので、困ったら来て欲しい。再びみんなで農作業ができる事を望んでいる。」と言った。
帰り際、女性スタッフSが携帯メールを覗き込んでいた。そしてあわてて帰路へ。普段冷静な彼女のあんな慌てた姿を見たのは初めてであった。お腹をかかえて帰っていった。彼女は妊娠3ケ月であった。後で聞いた話であるが、携帯の一斉メールで「福島は放射能で危ない。大企業の社員は県外に避難し始めている。アメリカも福島は危ないと見ている。」
との内容であったとのこと。
スタッフみんなが帰り、農園事務所には妹家族だけが残された。豊間中学校の夫と生徒は、
学校の裏山に一晩避難していたところを無事発見された、という情報が入ってきた。
私は、事務所の窓にテープで目張りをした。少しでも放射能が部屋の中に入らないように。
そして、大きな福島県地図を壁に貼り、福島第一原発を赤く囲み、そこを中心に20キロ、30キロ、50キロの同心円を書き入れた。50キロの線は、二本松農園の中央部「公園」あたりを通っていた。
この第一原発事故直後、二本松農園周辺において、どのくらの空中放射能があったかについては、なかなか情報がつかめなかったが、2年後の2013年に二本松市から配られた資料によれば、2011年3月20日、農園近くの石井住民センターで、毎時5マイクロシーベルト。実に、年間許容線量の20倍である。

この時期、二本松農園では、春に出荷するハウスきゅうりの育苗を行っていた。
苗は、ハウスの中で、かわいい芽を出していた。しかし、まだ、寒いので、
夜は、通常電熱で暖をとっていたが、停電しているのでそれができない。
そこで、近所の家から大きな鍋をもらい、ハウスの脇でその鍋に薪でお湯をわかし、それをエンジンポンプで、苗の近くを通したビニールパイプに送ることにした。
そして、その準備ができた頃、電気が復活した。震災から5日目であった。
しかし、きゅうりの苗は寒さでかなり弱っていたため、思うように生育はしてくれなかった。
まだ、スタッフは一時帰宅のままであった。
3月17日頃だったと思う。一人で畑に出て、間引きなどの作業を行っていた。
しかし、放射能の影響で、この野菜も出荷できるかどうか分からない。
でも、私は、農業を専業としてやることで公務員を辞めた。
もうこれしかない。でも、放射能の影響で、もうこの地で農業を行う事はできなくなるのかもしれない。でも、これしかない。そんな事を思いながら、一人手入れをしていた。
畑から村を見渡した。昔から住んでいた村だ。ここで生まれ育った。
その何も変わらぬ風景が広がっている。でも・・・何か違う。
空間がゆがんでいる。何か他人行儀な風景だ。
夢の中に浮かんでいるようだ。
巨大な力が空間をねじまげている。
そんな事を感じていた。

(出荷停止)
3月20日頃、福島県産の露地野菜のほとんどが出荷停止となる。
恐れていた事が現実となってきた。
竹粉を使って、スタッフと一緒に植えた40アールのほうれん草も、すべて出荷停止となった。
かわいい芽を出し、10センチぐらいに育ち、あと1ケ月ぐらいで出荷できると思ったのに。
バックホーで、畑の脇に穴を掘り、ほうれん草を削ってその穴に入れた。
涙が流れた。いったいこの先どうなるのだろう。スタッフの給料も払えない。
今でこそ、東京電力からの損害賠償はスムーズに出るようになったが、この当時は、損害賠償請求の仕方も分からず、実際、請求しても支払まで半年くらいかかった。
ほうれん草を廃棄していた頃、東京のテレビのキー局の取材が入った。夜、9時55分から始まる視聴率の高い報道番組である。出荷停止で困っている福島県農家の取材、という事だった。記者、カメラマン、音声などの5人体制。私が、ほうれん草畑で、くやしい思いなどを説明していた。すると、カメラを回している、その後ろの音声係のスタッフが、取材に夢中になり、なんと、私とスタッフが栽培したホウレンソウを踏んづけていたのである。
私は激怒し、「なんで踏んづけているんだ。出荷停止になっても一生懸命育てたホウレンソウなんだ。それを踏んづけるなんて。おまえらは、ただ報道したいというだけで、福島県農家の事なんか何も考えていないんだろう。」
取材スタッフは土下座して謝っていた。空しかった。先の見えない苦しさだった。

(奇跡)
電気は復活したものの、ガソリン不足で農作業はできず、スタッフも自宅待機のままだったため、私は、事務所で何をしようかなあ、と考えていた。
しばらく考えて思いついた。「そうだ、今起きていることをインターネットのブログで発信しよう!」この村出身で東京に移り住んだ人は、村の様子が気になっているはず。その人たちに村の様子を伝えたい。そんなちょっとした思いであった。
激しい揺れだったが、村で建物崩壊はなかったようだ。浜通りから浪江や大熊の人たちがたくさん避難してきている。ガソリン不足は先が見えない。農産物は出荷停止になってきた。
などなど。
そうすると、ブログを上げはじめてから約1週間。震災前は1日20件ぐらいしかなかった二本松農園のホームページへのアクセスは、なんと・・・1日2000件にもなっていた。すごい反響である。
この頃から、出荷停止になっていないものまで、福島県産農産物が売れない状況、いわゆる「風評被害」が出てきた。震災前に収穫した米や野菜、あるいは、放射能の影響のないハウス栽培の野菜までも売れなくなっていた。
私のブログを読んだ人から、次のようなメールやブログへの書き込みが寄せられるようになった。
「福島県の農産物を買って応援したいが、近くのスーパーに並ばなくなってしまった。二本松農園のネットショップに載せてもらえないか。」
なるほど、と思い、さっそくネットショップに載せてみることにした。
3月30日の午後、二本松農園にあった、2010年秋産の米5キロを20袋程度、ネットショップに載せてみると、約30分で完売となった。すごい売れである。
米以外に農園で出せるものはなかったので、隣村のハウスきゅうりを栽培している農家を訪ねた。私が「きゅうりは売れていますか?うちのネットショップに上げたら、全国からたくさんの応援買いが入っています。よろしければ、ネットにきゅうりを載せませんか?」するときゅうり農家のMさんは、「普通だと5キロ箱で1500円ぐらいにならないと採算がとれないのに、現在、700円以下になり、それでも、買い手がなく、農協への出荷も止まっている。ぜひ、売って欲しい。」とのこと。そこで、すぐに1500円の売価でネットに載せると、どんどん売れていく。
次に、40年以上有機農業を行っているOさんを訪ねると、「関西を中心に数百人にセット野菜を販売していたが、6割くらいの人からキャンセルが入ってしまった。人参や長いも、そして米があるので販売して欲しい。」との事。これもさっそくネットに載せると、いくら載せても売れてしまう。
それからは、二本松農園の事務所は、ネットショップの注文を受けるコールセンターのようになってしまった。一晩のうちに200件を超える注文が入り、朝8時にそれを出力、該当する農家に注文FAXを発送するとともに、7人のスタッフみんなで、宅配伝票を書きまくり、午後には、該当する農家から集荷してきた野菜類を梱包したり、発送作業を行う。夕方5時には、宅配業者のトラックに満載になって、全国に野菜類が発送されていく。電話でも注文が次々と入る。「神戸の建設業者です。阪神淡路大震災を経験しているので、大変さが痛いほど分かる。すぐに100万円分の野菜を買うので送って欲しい。」
「福島県の本宮出身で、現在名古屋で福祉施設をたくさん経営している。福島県を助けたいので、各施設にきゅうりを箱でたくさん送って欲しい。」「大阪の行政書士会である。総会があるので、会場で福島県産のきゅうりを配りたい。20箱を至急送って欲しい。」「ニュージーランドに住んでいる。福岡市の実家の両親に野菜をたくさん送って欲しい。」というようなあらゆる注文。はては「出荷停止なんて何を考えているのか。これでは福島県の農家が死んでしまう。私は放射能なんて怖くないので、ぜひ、出荷停止になっているほうれん草を送って欲しい。食べても大丈夫、という事を証明したい。」これには、「気持ちはありがたいが、出荷停止になっている野菜を送る事は絶対できない。」ともちろんお断りした。コンピュータが壊れるのではないかと思うほど注文が入り続ける。電話注文も鳴りっぱなしである。
私は「全国には、風評被害のように、福島県産農産物を食べない人が多いが、逆に食べて応援したいと思う人も、又多い。」応援してくれる人と福島県農家を直接結びつけて、農産物を送り続ければ、風評被害を乗り切る事ができる!インターネットは、そのツールとして非常に有効な手段である。」と思った。
この状況を聞きつけ、あらゆるマスコミの取材が入ってくる。NHKニュースでは、「風評被害をネットショップで乗り切っている農家がいる。」ということで、7分程度の県内ニュースを何回も流し続け、何日か後には、「おはよう日本」の一番視聴率の高い、朝7時すぎ頃放映、その後世界放送へ。大阪にあるYテレビでは「福島県の野菜がネットショップで買えまっせ。」という感じで放映。この時は、注文が殺到し20分間ですべての商品が在庫切れ。売上が20分間で200万円にも達した。農園には、同じ時間に数社のテレビ取材がダブって入る事もあった。
 マスコミに取り上げられると、このようなメールも入り始める。「九州に住んでいる。ネットで福島県新地町のKさんというニラ農家が困っているようだ。何とか助ける事はできないか。」。すぐにそのニラ農家に電話すると、「津波が、ニラハウスの近くまできたが、幸いハウスへの直撃は避ける事ができた。しかし、浜通りということで、放射能のイメージがつきまとい、売れない。」とのこと、すぐにネットで紹介すると、またまた、爆発的に売れまくる。
 4月のある朝には、こんな事もあった。
 あまりにも忙しいので、私は、事務所で仮眠状態で過ごしていたが、朝起きると、事務所の玄関に見知らぬ女性がうずくまっていた。私が「どうしましたか?」と尋ねると、その女性は「風評被害で観光客も来なくなってしまった。観光客向けに ゆべし を販売していたが、それが売れず困っている。このままではパート従業員を解雇するしかない。何とか助けて欲しい、」と。聞けば、その女性は二本松農園から100キロメートルも離れた、新潟県境近い只見町から来たとのこと。朝5時頃出発してきた事になる。「事前に電話くださればいいのに。」と私が言うと、その女性は「私は ゆべし を作っているので農家ではありません。電話して、二本松農園さんに、農家でないのでダメ、と言われたら大変なので、わざと、電話しないで来ました。」私は、「ゆべしだって、餅米を使っているでしょう。なので、農業と関係ありますよ。観光関係も風評被害で大変なんですから、私ができる事があれば、何でもやりますよ。」というとその女性は安心したようになった。5月に、二本松農園のネットショップに参加している農家で、任意団体の「がんばろう福島、農業者等の会」を立ち上げたが、名前に「等」が入ったのは、このような理由からである。
 その女性を事務所に招き入れた。私が「何か商品はお持ちになりましたか?」と尋ねると、
商品である ゆべしや味みそなどを出して見せた。さっそく、ネットショップに載せるセットを二人で組み始める。ゆべし3本と味みそを組み合わせ、送料も含めて4500円のセットがすぐに完成した。写真を撮り、私はパソコンに向かい、すぐにブログで今の様子を発信し始める。
先ほど100キロも離れた所から女性が農園に訪ねてきたこと。風評被害は観光にも及び ゆべし が売れなくなっていること。このままではパートを解雇するしかないこと。なので、まもなくネットショップにこれらの商品をセットにしたものを上げるので、ぜひ、全国の皆様応援して欲しい。というような内容。ブログを発信してから約30分後ネットショップに4500円のセット商品を上げると、買いが殺到、30分ぐらいで4500円の商品が20セットも売れた。私が「セットが20売れましたよ。30分でトータル10万円近く売れました。このペースでいけば、パートの方を解雇しなくても大丈夫かもしれませんね。」と言うと、その女性は、目を丸くし「こんな事が世の中にはあるんですね。」と。
女性は、安心して100キロの道のりを帰って行った。
 こんな事もあった。南相馬市にある障がい者施設から電話が入った。「原発周辺から多数の障がい者が、うちの施設に避難してきた。定員の何倍もの障がい者であふれている。食糧費等を稼がなくてはならないが、震災前、南相馬市の道の駅に、施設で作った豆腐や豆乳を出していたが、今は、南相馬市から多数の住民が避難してしまったほか、観光客もまったく来なくなってしまったので、豆腐や豆乳が売れなくなってしまっている。助けて欲しい。」とのこと。私は「すぐにやりましょう。農園に来るのは大変だと思うので、すぐに、みんなで相談して、豆腐と豆乳のセットを組み、その写真をメールで送ってください。ネットで販売してみましょう。」。
数時間後、写真が送られてくる。私は、例によってブログで、南相馬市の障がい者施設が大変な事になっている事を発信し、その後、豆腐と豆乳のセットをネットに載せる。すると、いつものように全国から多数の買い。
この施設の方とは、その後、東京へ直接販売に行く時に一緒に販売するようになった。

(被災地支援野菜)
 被災地を支援したいという思いは、さらに画期的なシステムも生み出した。
 ある女性は、二本松農園のネットショップで、たくさんのきゅうりを買い付け、石巻や気仙沼の津波被災地に送っていた。その女性からある日メールが入った。「今まで、自費で二本松農園のきゅうりをネットで買い、三陸の津波被災地に送っていましたが、実は、その費用は少ない給料からねん出していました。このまま続けていると、私自身生活ができなくなってしまいそうです。そこで相談なのですが、二本松農園のネットショップで募金を募り、それを原資に、津波被災地に野菜を送ってもらえませんでしょうか。」との内容。私たちは、ハッと気が付き、そうだ!この方法なら、継続的に津波被災地に野菜を送る事ができ、支援を受けた人だけでなく、福島県農家も助かる。それに、募金した人も、自分の行った募金が、どのように使われ、誰が助かったか分かり、募金のしがいもある。「すぐにやろう!」ということで、3時間後には、ネットショップに「被災地支援募金」をUPした。
震災後、良くメールで「公共的な募金を随分行ってきたが、自分の行った募金がどのように使われているのか分からず、残念な思いをしている。」との内容を目にしていた。被災地支援野菜の方法なら、この不満を解決できる、と直感的に思ったのである。被災地支援募金では、一口500円で好きな口数を募金でき、5万円に達した時点で、福島県の野菜を被災地に送り、その結果を、募金してくれた人にメールでお知らせした。この方法も爆発的な支持を得、ある時は、ネットショップにUPすると30分で、5万円が満額になった事もあった。 
震災後、私がいつも持っていた1枚の写真がある。それは、小さな子供が、被災地支援で送られた二本松農園のきゅうりをおいしそうに食べている写真である。子供の母親からメールが入ったものである。「宮城県亘理町の者です。いつも被災地支援できゅうりをお送りいただきありがとうございます。実は、夫は津波で亡くなりました。幼い男の子二人と私が残されましたが、生活が苦しく食料を買うこともままなりません。そんな時、二本松農園のきゅうりが送られて来ました。全国の皆様からの募金によるものだという事も知りました。とてもありがたく、何とかお礼を申し上げたくて、携帯で写真を撮りましたので送らせていただきます。」
との内容。その写真を見た時、農園のスタッフと私は涙が止まらなかった。小さな男の子が、きゅうりを握りしめながら、母親を見ている写真。この一枚の写真には、津波被災地の大変な現状、子供の手に握られているのは風評被害に苦しむ福島県野菜、野菜を子供に届けているのは全国の方々の被災地に思いを寄せる心・・・この三つが凝縮されているのである。
なので、この写真は私の宝物となった。東京に初めて福島県の野菜を車で販売に行く時も
この写真を持っていた。この写真を見ると、みんなの心をつないで震災を乗り切っていく、という勇気が湧いてくるからである。
この被災地支援野菜(募金)は、今も二本松農園のネットショップで続けられている。
 このような、ネットショップにおける爆発的な応援買いは、2011年4月中、約5000件、総売り上げ2000万円にもなった。震災前、1年間の売上が10万円程度であったから、実に1ケ月でその200倍もの売り上げになった事になる。
 しかし、5月の連休を過ぎると、その売上は急激に減少していく、一部の継続的なリピーターを除き、応援買いは長続きしない面があるからである。【第3話に続く】
 










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  1. 2019/01/12(土) 18:14:42|
  2. 二本松農園の1000日
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連載「二本松農園の1000日」【1】

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2014年に発刊したこの本ですが、このたび、二本松農園代表齊藤登のブログで連載させていただくことにしました。2011年に発生した東日本大震災により、福島県農業は、放射能対策や風評被害で大きな影響を受けましたが、
実際、福島県の農業現場で、どのような事が起きていたのかは、なかなかまとまったものがありません。
この本は、福島第一原発から50km、二本松.農園がこれらにどのように取り組んできたかを農業者の立場から
ありのままに書いています。
これをご覧いただくと、福島県農業はもとより、広く消費者と農業者との関係、日本の農業の未来も見えてくるような気がします
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第1話

(さよなら、サラリーマン生活)
震災の1年前の、2010年3月31日、私は、福島県いわき市、ある県立高校の校門の前にいた。振り向けば、3階建の鉄筋コンクリート製の校舎がまぶしく青空に光っている。
日本でも有数の広い市域を持ついわき市。「東北の湘南」とも言われるように、いわき市は、気候が温暖で雪はほとんど降らない。映画フラガールの舞台としても有名な「スパリゾートハワイアンズ」があるように、南国の雰囲気さえある。この校舎は、そんないわき市の
中心部、巨大な新興住宅地のてっぺんにそそり立っていた。校舎は3階建で屋上には、大きな太陽光発電設備があり、その屋上からは、太平洋も見渡すことができた。よく、見回りがてら、その屋上に行き、海を見ていたものである。
私が、この高校に赴任したのは、わずかその1年前、事務長としてである。学校は、校長・教頭が頭に浮かぶが、事務長はあまりイメージできない。そのとおり、仕事と言えば、授業料の徴収責任、PTAの窓口、先生の給料の事務的管理など限られている。窓際的管理職なのである。
私は、昭和53年に福島県職員になった。それから32年。県警本部の事務。事務と言っても、麻薬・覚せい剤の取り締まり補助、その後、県行政に戻り、土木、企画調整。企画調整では、県の長期総合計画、観光といわゆる現場と企画畑で生きてきた。どの部署もそれなりに変化があって楽しかったし、自分の考えの実現もある程度できた。しかし、県立高校の事務長は、ちょっと違って、完全に管理職。そこには、新しい事を計画して実行するような余地はなかった。
併せて妻子を福島市に残しての単身赴任。高校に赴任して1ケ月で「この仕事、自分にとって3年はもたんな。」と思うようになった。もともと50才になったら、県職員を辞めて新しい仕事に・・と思ってはいたので。赴任して7ケ月目の11月、校長に「私は、この仕事に合わないと思うようになりました。50才になったら新しい世界に、とも思っていたので・・・来年の3月をもって退職したいと思うのですが。」と告げた。校長いわく「その方がいいかも知れませんね。齊藤さんを見ていると、もっと企画的というか、現場的というか、
民間的というか、そのような世界がいいのかなあ、と思います。実は、私も本当は校長など辞めたいと思う事があるのですが、現実的に難しいものです。そのように、新しい世界に向かっていける齊藤さんがうらやましいと思います。」と、あっさり承諾。校長と教頭とは、毎月3役会議と称して、酒飲みをして、本音で語り合っていた。校長も教頭も実は人の子。
彼らにとってストレスのたまる場でもあったのである。しかし、そんな事を心をわって話す事のできる校長・教頭が、私は心から好きだった。だから、私が、退職したいと言っても、
自分の気持ちと照らし合わせ、OKと言ってくれたのだと思う。
それから4ケ月。今日退職を迎え、校舎を後にした。もうこの場所に戻る事はない。32年間の県職員生活に戻る事もない。しかし、さみしさはなかった。明日から始まる「農業」という世界に希望があったからである。車のバックミラーに遠ざかる校舎。まさか・・・それから1年後、震災でこの校舎に避難してきた高齢者が多数死亡するような事が起きるとはその時思いもよらなかった。

(農業1年目)
いわき市の県立高校を後にして2時間後、私は福島県二本松市の東部、阿武隈山系の山の中にある二本松農園に到着した。ここは、私が50年前に生まれた地。もともと農業を主として生計をたてていたが、規模は、畑1ヘクタール、水田2ヘクタール程度でそんなに大きい農家ではなかった。私が専業として農業を行うためには、もう少し規模が必要ということで、4ケ月程前から、隣接する耕作放棄地を借り受け、開墾を行うともに、水田も借りて、この時点で畑が約2ヘクタール、水田が4ヘクタール程度になっていた。
今日は、3月31日、農園の主たる作物である夏の露地きゅうりの栽培のためには、もう畑づくりを始めなければならない。農園に着くと、牛の堆肥を積んだダンプカーが畑にいた。堆肥を畑に下し、帰ろうとしたところ、坂でダンプカーが動かなくなってしまった。農園のバックホーを持ち出し、ダンプカーの尻を押したり、道を削ったりしてようやく脱出。これを背広を着たまま行ったため、体からはぷ~んと牛堆肥の臭い。その夜、福島市内で昔の職場の仲間が懇親会を催してくれたが、みんなから「なんか、もう農業の臭いがするな。」と笑い。
楽しく、希望に満ちた出発だった。

露地きゅうりは、7月下旬から収穫になる。そのためには、さかのぼって、2ケ月前の6月上旬に苗の定植(畑に苗を植えること)。その2ケ月前の4月には、畑づくりを行う。できるだけ、農薬や化学肥料は使いたくないので、山の木の葉で作った堆肥や、近くの畜産農家から出る牛堆肥を畑づくりの基本とした。きゅうりの場合、きゅうりをからませる金属製の「支柱」も畑に設置する必要がある。支柱の間隔は2mで、この年、露地きゅうりを1ヘクタールも栽培したので、支柱の延長も相当のものである。支柱を立てると、次は、それを針金で固定し、網をかける。きゅうりは、どんどん成長してくるので、これらの作業も急がなくてはならない。
ひとくちに1ヘクタールというが、きゅうりとしては相当の面積である。きゅうりは、どんどん成長する植物なので、実をつけはじめると1日朝夕2回収穫する必要がある。それを畑から作業所に運び、1本1本サイズごとに選別し、その日の11時には、農協の集荷所に箱づめにしたものを持ち込まなくてはならない。かなり、手間のかかる作業なので、普通の農家だと20アールから、せいぜいやっても50アールが限界である。それを無謀にもその倍の1ヘクタールも栽培した。
スタッフがいるから大丈夫だろう、という私の考えからだったが、そんな生優しいものではないということは後になって分かった。
きゅうりと並行して、水田の作業もある。この年4ヘクタールの水稲を栽培した。水田に牛堆肥を入れ、トラクターで耕し、水を入れ、代掻き(しろかき)をして、田植えにこぎつける。田植えまで様々な作業を伴うため、こちらも時間との戦いである。
7月上旬、いよいよきゅうりの実がつきはじめた。順調である。いちばん最初にきゅうりを定植した畑は、近所の農家が長い間、野菜畑として使用していたところなので、きゅうりも順調に育っていった。朝6時から1回目の収穫を行い、それを作業所に運び、1本1本、サイズ A・B・C・S・AS・AL・L・規格外というように選別し、それを5キロ入りの箱に入れていく。7月中旬には、この箱が1日100箱程度出るようになった。午前11時には、この箱をトラックに積み、近くの農協の集積所まで持ち込む。そこにトラックがやってきて、他の農家のものも積み込み、二本松インター近くの積み替え場所で、再積み替えを行い、夕方には、東京の大田市場か、大阪・名古屋に向けて「きゅうり」が出発する。
夏場の福島県産きゅうりはブランドになっている。暑さで、九州や埼玉産がとれなくなるので、ちょうどきゅうりの需要が最も高まる8月、福島県産がほぼ独断場となる。価格は、5キロの箱で、採算ベースがA級で1200円程度、安いときは1000円を切ることもあるが、逆に2500円になることもある。きゅうりは、このように価格差が激しいので、農家の間では「博打」と呼ぶ人もいる。
この年、きゅうりの相場は、お盆前までは、1200円程度で推移し、お盆過ぎから、2500円以上をつけるような高値になっていた。味の面でも福島県産露地きゅうりは抜群である。気候がきゅうりに合うということであろうか。
しかし、この年、8月になって、大変な事になってきた。雨が降らないのである。きゅうりは、水のかたまり。これが不足すると生育に大きく影響を与えていく。だからといって、通常、露地きゅうりの畑にパイプを引いて水を与えるような事はしない。きゅうりが水を求めて、どんどん地中に根を張っていくようにする。これにより、がっちりとした木になり、それがきゅうりの味や形も良くすることになるからだ。なので、畑は、できるだけ土を柔らかく、根が張りやすいように、堆肥や木の葉、稲わらなどを畑に入れて、ふわふわの土にしていく。よっぽどの日照りにならなければ、30センチぐらい地中に入れば、水分があるからである。
しかし、この年は違った。雨が異常に降らないのである。6月の梅雨の時期は雨が多かったが、梅雨が明けて、7月の10日頃から8月中旬までまったく雨が降らなかった。日ざしも非常に強い。地球温暖化の影響だと思われる。こうなると、さすがに、畑に水をまく必要がある。しかし、農園のきゅうり畑は1ヘクタールもある。水を入れるといっても、設備自体から準備する必要がある。きゅうり畑の近くには、水田用の疎水が通っている。直径1メートル以上の巨大なパイプで阿武隈川の水を引いている。「この水を使えれば・・」と通常思うが、これは水田用として整備されているので、絶対、それを目的外の畑に使用することはできないのである。なんという縦割り。同じ農産物なのに、水稲用の水は、野菜には使ってはいけないなんて。関係機関に聞けば「疎水は水田用の予算でつくっているので、目的外使用は絶対ダメ。」とのこと。唖然とした。しかたがないので、農園内に古い井戸があったので、その水を使用したが、広いきゅうり畑では、20分も水をまくとなくなってしまった。下の川から揚げようとしたが、畑までは、20メートルほど落差があるため、ポンプではなかなか揚がらない。そのため、急きょ途中に池をつくり、いったんそこまで川の水をあげ、そこから2段目のポンプで畑まで揚げることにした。しかし、広いきゅうり畑、ポンプで揚げた水の量では焼け石に水である。強い太陽の光で、大切なきゅうりの木がどんどん弱っていくのがわかる。身を削られる思いであった。少しでも助けたと思い、夜中、ビニールパイプを抱えて、畑をはうようにして少ない水を引いた。涙がこぼれた。
8月7日頃から、きゅうりの木は目に見えて弱っていった。実もあまりつけなくなった。
形も曲がっていく。
こうなると、市場ではきゅうりが少なくなるので、どんどん値段があがっていく。この頃から5キロ1箱で2500円以上となっていく。しかし、肝心のきゅうりがならない。
お盆には、雇っていたパート従業員7人に「ゆっくりお盆休みをとって欲しい。」旨告げたが、その後、復帰するまでにはいかなかった。
9月11日、この年、最後の露地きゅうりの収穫を終えた。通常であれば、10月中旬まで収穫しなければ採算がとれないところであるが・・・、日照りでまったく木が弱り、病気も蔓延したのでしかたない。エンジン除草機で切り倒していった。
7人の農園スタッフも心配顔であった。二本松農園はきゅうりで経営しているのに、大丈夫なのか・・・。スタッフに「みんなは一生懸命やってくれたのに、私の技術不足で申し訳ない。来年に向けて、しっかりとした土づくりをしよう!」と言った。
あまり知られていないことだが、大規模に野菜づくりをするためには、相当の資金がかかる。きゅうりも1ヘクタールも栽培するとなると、支柱が数千本、張り巡らす針金、ネット、苗、きゅうり専用の化学肥料、消毒、消毒のための機械などなど。1千万円以上の収穫を見込み、初期投資ということで、それ以上にお金をかけたが、実際は、収穫が予定の3分の1以下だったため、かなりの赤字である。7人のスタッフの給料も毎月払わなければならないので、県職員の退職金は、秋には底をつきはじめる。「どうやって、来年のきゅうりの時期までつないでいったらいいのだろう。」そんな思いがめぐる。
秋、稲刈りを終えた。予定よりは、収穫量は少なかったが、貴重な現金収入としてありがたかった。年末には、個別所得補償などの補助金も出るため、これらにより、何とか春までつなぐことにした。

(農業経営・ネットショップ)
農業の経営がそんなに甘いものでないことは覚悟していた。小さい頃から父と母の苦労を見ていたからである。二本松農園のある福島県阿武隈山系は、昔、養蚕が盛んな地域であった。しかし、安い中国産が入ってきたことにより、昭和40年代の後半からは、養蚕は急激に衰退していく。たばこ栽培もダメ、野菜・米・牛の飼育もしていたが、これでも食べていけず、父は大工をはじめ、母は、農作業のあいまに、家政婦もしていた。養豚は高値の時には良くて、父はよく「子供の大学は豚で出したようなものだ。」と言っていた。しかし、それも長続きはしなかった。子供の教育が終わると、父と母は、「なす」と「きゅうり」を栽培するようになった。きゅうりの栽培は大変であるが、1年を通すと、他の野菜よりは単価が高いために、なんとかやっていけたようである。
そんな、両親の苦労を見て育ち、せっかく、県庁職員になったのに、なぜ、それを辞めて、苦労の多い農業をやるのか?よく人に聞かれる事である。なぜなのだろう・・。自分でも正直分からない部分がある。でも、50歳からは「自分で判断できる、自分で決めることのできる、自分のしたい仕事」をしたかった。なので、仕事は実は、農業に限定するものではなかった。「独立して、自分にできることが何かあるか?」と考えたが、見つからなかった。そのうち「そうだ、農業だったらできるのではないか。小さい頃から両親と農業をやっていたし、畑と水田をもっている、というのは自分の武器ではないか」と
思うようになった。「農業は大変と誰もが言うが、それは、従来のやり方でやっているからで、六次化やIT等を組み合わせれば、自分なりの、新しい農業ができるのではないか。」
「大変な世界だからこそチャレンジしてみたい。」こうなると夢と希望で満ち溢れ、すぐに実践してみたくなるのが私の性格である。あえて、苦労をしてみたい、というのも、また私の癖、なのである。
なので、農業1年目も、「人が難しいという事を、とりあえず全部やってみよう」と思った。どれくらいダメなのか、経験してみないと分からない。経験してみたい。このため、無謀とも言えるきゅうり1ヘクタール栽培、これで、農業経営をしてくのは難しいと言われる農協への出荷。併せて、ネットショップによる野菜の販売。などなど。
1ヘクタールのきゅうり栽培は、1年目は日照りも重なり失敗となった。退職金もかなり失った。農協へ出荷してみて分かった事は、「農協への出荷は価格が安定しないため、これで経営計画を立てる事は難しい。」という事である。価格が2~3倍も変動していくようではとてもそれで経営を成り立たせていくことはできない。また、農協出荷は、どんなに作物に「こだわり」を持って栽培しても、すべて、形や大きさで決まるため(共同出荷)、付加価値がでない。これでは、やりがいがない。という事も分かった。ただし、農協出荷の良い点もある。それは、よっぽどの不良品でない限り、全て買い取ってくれるということである。野菜は毎日生産されるので、これをすべて販売するということは農家にとってとても大切な事になる。せっかく作ったのに無駄にしたくない。なので、全量買い取りをしてくれる農協はありがたいのである。ベテランの農家や果樹農家などは、お得意様に直接販売し、残ったものを夕方農協に出荷する、という事が多い。
ITを使った農業については、私自身懐疑的であった。「野菜を、高い宅配料を払って買う人は少ないはず。米だとニーズはあるだろうが。」と思っていた。実はこのとおりで、農業をはじめた2010年6月に、二本松農園にネットショップを開設したが、それから震災の起きるまでの10ケ月間の販売は、年間トータル10万円程度で、決して売れたというレベルではなかった。しかし、ネットショップやホームページを持っていると、農園の知名度があがり、農園を訪れる人は増える。このような事が1年の農業経験で分かった事である。
(震災前の冬)
夏のきゅうり栽培は、さんざんな目にあったので、この冬は原点に返り、徹底した「土づくり」を行う事にした。
近所の山から木の葉を集め、トラックで農園に運び牛堆肥と混合して農園独自の有機肥料をつくる。荒れた水田や空地には大量の草が生えているので、それを刈り取り、これも農園に運び、バックホーで畑に穴を掘り、そこに、刈り取った草を大量に入れ、覆土していく。
このようにすることにより、地中が柔らかくなり、きゅうりの根が張りやすくなるため、結果として夏の日照りにも強くなる。
「竹粉」にも注目した。
二本松農園のある鈴石地区(村)も高齢化が進み耕作放棄地が広がってきている。耕作を放棄した畑には、2年もすぎると竹が入り込んでくる。私は、この耕作放棄地解消にも取り組みたいと思ったので、2009年の冬から家族とともに、耕作放棄地の開墾を行っていた。うっそうとした竹林の竹を一本一本のこぎりで切り倒し、根は、バックホーで掘り起こしていく。気の遠くなるような手間のかかる作業である。
2010年の冬も、この竹林の開墾作業に取り組んでいた。ある日スタッフが「竹を粉状にして畑に入れましょう。そうすれば、畑がふわふわになって根が張りやすくなるほか、竹の養分で畑が肥える。」
竹パウダーを作る機械を持っている人を聞きあたり、竹粉を大量に購入、これを使って、冬から春にかけて、「ほうれん草」を栽培することにした。耕した畑に竹粉を筋状にまき、そこに、ほうれん草の種を撒いていった。寒い冬でも竹粉のところは暖かいので、竹の養分も手伝って芽が出るはず・・・と思った。面積は40アール。一口に40アールと言っても、面積的には10メートル×400メートルであり、相当の面積である。
このような有機的な方法で野菜づくりにチャレンジするのは、すこぶる楽しい。はたして芽が出るだろうか、大きく育つだろうか、味は・・・。考えるとわくわくする。スタッフも同じ思いだった。
よく、「有機栽培」とか「有機農業」などと、有機栽培が特別の行為のように言われるが、二本松農園にとっては、「有機」は別に特別な事ではなく、近所の山にある木の葉を使うし、
草はすき込むし、竹も粉にして使いたいと思う。私は、有機農家と慣行農家(有機農法以外の農家で昔ながらの化学肥料等を使った農業)を区別して論じるのがあまり好きでない。慣行農家という言い方も、なんか、工夫なく農業をやっているようで差別的である。慣行農家であっても、できる限り、農薬や化学肥料は使いたくないと思っているし、自然のものを使ってやろうとしている。作物に対する思いは、有機農家であろうと慣行農家であろうと同じだと思う。二本松農園では、できる限り農園の近くにある有機資材を使って栽培しているが、
でも、すべてそうはいかない面もある。たとえば、きゅうり栽培をしていると、ベトやウドンコと呼ばれる病気が蔓延することがある。早い時には、3日ぐらいで畑全体に広がり、収穫がおぼつかなくなる。なので、そうならないように、定期的に消毒で病気を予防する。しかし、その回数をできるだけ減らすために、しっかりとした土づくり、苗づくりに努力していく。化学肥料もあまり使いたくないが、病気になりにくく、収穫量をあげるためには、
「きゅうり専用」と呼ばれるような化学肥料を少し使う。それで危険性があるようなレベルではなく、基準の3分の1以下程度にしている。化学肥料と有機的な肥料とを組み合わせ野菜づくりを行うと、多様な栽培方法として、おいしいきゅうりづくりにもつながっていく。

竹粉を使った、初めてのほうれん草栽培。ワクワクして芽が出るのを待っていたが、なかなか芽が出てこなかったが、2月下旬になって、ようやくかわいい芽が出はじめた。
スタッフみんなで、「芽が出てきたよ」と言って喜んだ。畑周りの雪も融けはじめ、春の息吹が少しずつ感じられる頃であった。しかし。それから2週間後、激震が二本松農園を襲う。【第2話に続く】














  1. 2019/01/10(木) 09:34:29|
  2. 二本松農園の1000日
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    福島県二本松市の里山ガーデンファーム・二本松農園です。 長年きゅうりを作ってきましたが、2010年4月からWEBショップ、きゅうりもぎ取り体験も始めました! ブログ担当スタッフSは福島初心者です。 日々の発見を綴っていこうと思います。

    【福島県】里山ガーデンファーム 二本松農園 代表 齊藤登

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